ESSAYかぐらびと

伝統とは継承し続けること | 矢来能楽堂 観世九皐会

2025.05.01

「やめる理由ではなく、常に続ける方法を考える。その姿勢が原点です。」

震災と戦禍により舞台を失いながらも、再建を重ね、地域とともにあり続ける矢来能楽堂。長年にわたりこの地で能楽の普及・継承に取り組み、能文化の発信拠点としての役割を担い続けています。

今回取材を行ったのは、観世流シテ方能楽師の観世喜正氏。能楽堂の歩みと、これからの展望について伺いました。

矢来能楽堂 観世九皐会
観世 喜正 Kanze Yoshimasa

1970年生まれ。観世流シテ方能楽師。公益社団法人観世九皐会理事長。法政大学大学院、皇學館大学にて非常勤講師、シンガポールのITI(インターカルチュラル・シアター・インスティテュート)で講師を務める。文化庁学校巡回公演など、日本国内外での普及に尽力し、その活動は多岐にわたる。


震災と戦禍を乗り越えて

観世流の歩みについてお聞かせください。
「ご存じの方も多いかと思いますが、能は室町時代に観阿弥・世阿弥(かんあみ・ぜあみ)父子によって形づくられた日本の古典芸能です。その中でも観世(かんぜ)流は、観阿弥を初代とする、最も長い歴史を持つ流派の一つとして知られています。私どもは、その観世流の分家筋にあたります。明治期に分家し、神田・西小川町(現在の神保町)にて活動を開始いたしました。大正12(1923)年の関東大震災により能舞台が焼失した後は、目白にあった拠点を活用しつつ新たな地を模索しておりましたが、昭和5(1930)年、ご縁をいただいて現在の場所に、曾祖父・初世観世喜之(よしゆき)が能楽堂を落成いたしました。」
第二次世界大戦の戦時下でも公演をなされていたそうですね。
「なんとか苦労を重ねながらも、焼失する直前まで矢来や近隣の能楽堂で公演を続けていたと聞いています。空襲警報が鳴ればすぐに中断し、解除されれば再開。工夫を凝らしながら、能を守り抜いていたそうです。先人たちには、有事であっても決して伝統を絶やさないという強い覚悟がありました。その精神は今も私たちに受け継がれており、実際、コロナ禍においても柔軟に対応することができました。」
空襲では、この辺り一帯が焼けたと聞きました。
「昭和20(1945)年の5月ですね。矢来能楽堂も空襲から逃れることができずに、わずか15年で焼失してしまいました。疎開していた父(三世観世喜之)が終戦後に神楽坂に戻ってきたときは、どこもかしこも焼け野原。舞台どころか稽古場もない。焼けなかった染井の能楽堂(駒込)で公演を続けたと聞いています。」
再建時頃の矢来能楽堂外観(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で見る新宿」ID 9842)
昭和27(1952)年の再建当時は物資も乏しかったと思いますが、ご苦労はありませんでしたか?
「祖父(二世観世喜之)は焼けた能楽堂の土地を畑にして作物を育てながら、奔走の日々だったと。その際に、長野県木曽福島町の方々が、能舞台用に良質な檜を惜しみなく供出してくださいました。今でも木曾観世九皐会の方々は“うちの檜で舞台が建っている”と、誇りを持って語ってくださいます。そして私たちも、それを大切に語り継いでいきたいと思っています。」
木曽と能の関係は深いのですか?
「はい。木曽福島は能の謡(うたい)が根づいている土地でもあります。木を伐るときや人が集まるとき、『木曽節』の前に謡をうたうという風習が今も残っているようです。」

伝統の中で生きるということ

ご自身についてお聞かせください。
「私はちょうど、前回の大阪万博の年に生まれました。能楽堂のすぐ隣にある自宅で育ちましたので、能は日常の延長として、常に身近にありました。ただ、周囲から見ればやはり特殊な環境だったようで、学生時代の取材の際によく尋ねられたのが、“反発はなかったか、伝統芸能を継ぐことに迷いはなかったのか”といった質問でした。その時も今も答えは同じ。私にとって何ら特別なことではなく、生まれ育った環境の中で自然に歩んできた道だったと言えます。」
(左)『盛久』2024年9月8日撮影/(右)『當麻』2025年2月9日撮影

世界へ広がる能の美意識

能の普及活動はどのような経緯ではじめられたのですか?
「能の世界があまりにも限られた方々の間で成り立っているのではないか、という疑問を抱いたことに端を発します。私が若い頃は、いわゆるコアな愛好者やお稽古をなさっている方々が中心で、定期公演もそうした内輪向けの場という印象が強かったのです。もっと多くの方に能の魅力を知っていただきたい。能に触れたことのない方々にも関心を持っていただきたい。そのための入口となるような機会づくりを一つの目標として掲げるに至りました。以後は、舞台での活動と並行して、文化継承の一端を担う取り組みを行っております。」
能楽堂散歩in矢来能楽堂2025『船辨慶』(2025年1月4日撮影)
取り組む中で、どのようなことをお感じになりましたか?
「そうですね、時代の空気が次第に変化しているな、と。特に21世紀に入ってからは、和の文化全体への再評価が進み、海外でも日本文化への関心が高まっています。能に対しても、洗練された芸術としての認識が広がり、国内外を問わず注目されるようになりました。そうした反応を肌で感じる機会も増えており、普及活動の手応えを少しずつ実感しております。」
この春、シンガポールに行かれていましたね。長年、現地でもご指導をされていると伺いました。
「ご縁があって、2000年頃からシンガポールの ITI(伝統芸能と現代劇を融合させた異文化学習校)で、能の指導を行っております。設立者のクオ パオ クン氏より、“アジアに伝統芸能を基盤とする俳優教育を”との構想を伺う中で、伝統芸能に根ざした身体表現として最初に取り入れられたのが能であると知りました。氏の能への深い理解と強い意志を感じ、指導に携わることを決めました。卒業生の中には自国で劇場を運営し、能の舞台構成に触発された空間設計を取り入れている例もあります。能が異文化の中で再解釈され、新たな表現として発展していく姿を見るのは非常に嬉しいことです。日本では難しいと捉えられがちな能ですが、むしろ海外の方のほうが、その本質や美意識を素直に受け止め、創作の源にしてくださっている。その柔軟な感受性に、私たちの側が学ばせていただくことも少なくありません。」

“日本へ行くなら能を観るべき”になる時代

今後の展望についてお聞かせください。
「近年は訪日外国人観光客の増加に伴い、能楽堂を訪れる方も増えております。能についての予備知識はなくとも、感じることができる芸術であるという点に、国境を越えた可能性を感じています。国内外問わずに能に触れる喜びを体験していただけたら。そして将来的には世界中の人々が、日本に行くなら能を観るべきだと紹介してくださるような未来を描いています。」
伝統を継承するとは単に守ることではなく、伝える努力を重ねてこそ成り立つものです。
お話を通して、あらためて多くを学ばせていただいた取材でした。

今回、取材にご協力いただいたのは能楽師の観世喜正さん。
能楽堂に行ったら「かぐらびと見ましたよ!」ってひと言、頼むな!

施設情報

施設名
矢来能楽堂
住所
〒162-0805 東京都新宿区矢来町60番地
駐車場
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この記事を書いた人

かぐらむら編集局

隠れた名店や話題の最新スポットを実際に訪れ、取材しています。神楽坂を知り尽くした編集局ならではの視点で、皆さまに新たな発見をお届けします!

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