ESSAYかぐらびと

父から子へ、老舗の味をつなぐ | 毘沙門せんべい 福屋

2025.04.16

毘沙門天善國寺の門前で77年営んできた『毘沙門せんべい 福屋』。

いま、福屋は二代目から三代目へと受け渡す“大切な時期”に差し掛かっています。職人の問題、せんべいを焼く道具、そして食文化の変化……。時代の曲がり角に立つ老舗の今を伺いました。

毘沙門せんべい福屋 二代目、三代目店主
福井清一郎/福井ゆき子  Fukui Seiichiro/Fukui Yukiko

昭和23年創業。昔ながらの製法を守り続ける老舗煎餅店。天日で干した生地を一枚一枚丁寧に焼き上げる、素朴ながらも力強い味わいが人気。二代目は隠居の身だが、いまも店に立っており、気さくな人柄に惹かれて、まちの人たちが良くお店に集まる。三代目は父同様、地域とのつながりを大切にし、新しい世代ならではの感性で、店の魅力と役割を広げている。 


戦後、焼け野原からの出発

創業までのお話を聞かせてください。
 二代目 福井清一郎さん (以下:二代目)
「父は新潟・長岡の生まれで、大工町という職人の町で育ちました。もともとは大工になるつもりでしたが、戦争で召集され、戦後に戻ってみると、家は空襲で焼けてしまっていた。その場所は借地だったこともあり再建が難しく、それならばと親戚を頼って東京に出てきました。本当はそこで大工をやるつもりだったんです。でも父の弟、つまり私の叔父が肺結核にかかって、薬代として日銭を送る必要が生じた。ところが、大工仕事は手付け・中間金・完成金という形なので、すぐに現金が入るわけじゃない。見かねた親戚が財産を少し処分して資金を工面してくれて、父は日銭の入る和菓子屋をはじめることになり、後にせんべい専門店になりました。」
 
昔から東京土産といえば、せんべいが有名ですよね。
 二代目  「おせんべいには、江戸時代の参勤交代の宿場町で売れ残ったおだんごを平たくして焼いたのが起源という話もあります。もともと庶民的で素朴な食べものですから、そういった背景も含めて、父は現実的で受け入れやすい選択肢と判断したのかもしれません。」
昭和48年1月13日撮影。
当時、和菓子屋は何件くらいあったのですか?
 二代目  「この界隈だけで4、5軒ありましたが、競い合うのではなく、みんなで支え合っていた。商品はお互い真似せず、それぞれの持ち味を大切にしていましたね。僕も子どもの頃に、柏餅の皮を作る機械を一生懸命回して手伝った記憶があります。時代が進むにつれて和菓子の職人が独立していき、最終的に店に残ったのはせんべいの職人だけ。自然と、福屋といえばせんべいという形になっていったんです。」

昔話じゃなくて、うちの話

毘沙門せんべいという屋号はどのような経緯で?
 二代目  「正式に名乗るようになったのは昭和28年ごろ。もっと神楽坂を盛り上げたいという思いで、当時の毘沙門様の住職と相談し、『毘沙門せんべい福屋』と名付けたそうです。門前の店ですし、名前の重みもある。よい名前をいただいたと思っています。」
店内から見た毘沙門さま
福屋さんといえば歌舞伎役者の中村勘三郎丈ですね。
 二代目  「そう。17代目の話だけど、勘三郎丈は“こういう素朴な味が好きなんだよ”と言って、うちの焦げせんをとても気に入ってくださいました。見た目は不揃いでも、味は変わらない。それを舞台裏で召し上がる姿を見たお弟子さんたちが、“こんな素朴な丸いせんべいを食べるのを初めて見た!”と驚いていました。」
(左)毘沙門せんべい/(右)17代目中村勘三郎丈、直筆の書
長く続けていれば、山もあれば谷もある。その“谷”の話、聞かせてもらえますか?
 二代目  「父が“いい話がある”と持ちかけられて土地を買ったのですが、その物件が、実は東京都に差し押さえられていた場所だったんです。裁判やるまでもなく、残ったのは気の遠くなるような借金。小学生だった僕は“この家どうなっちゃうんだろう”と本気で心配しました。でも父はへこたれなかった。自分のように騙される人を増やしたくないと、勉強して不動産会社を立ち上げました。で、日仏学院の先生方に住まいを紹介するようになり、そこから自然と口コミで広がって。イタリア料理のカルミネさんもうちに相談に来たことがありましたが、そのときはあいにく空きがなくて、父も“ないよ”と断るしかなかった。でも、ガレットで有名なル・ブルターニュのベルトランさんが来たときには、ちょうど隣が工事中で父が“そこっ”と指をさして決まった。(一同笑)タイミングですね。」

“まちの背中”を押す覚悟

商店会の会長もおやりになっていましたね。
 二代目  「気づけば17年間(2002~2019)務めさせていただきました。特に印象に残っているのは東北の大震災があった2011年。東京都から花火大会中止の通達が出て、多くの地域が祭りの開催を断念するなか、神楽坂だけはやろうと決めました。迷いや不安もありましたが、こんなときだからこそ、地域が沈み込まないようにという想いがありました。祭りには鎮魂の意味もある。だからこそ、形だけでも火を絶やさずに続けようと。役員会でもさまざまな意見が出ましたが、最終的に私が責任をもってゴーサインを出しました。あの決断は、今でもやって本当によかったと思っています。」
 
三代目も、大震災の時には活動なされていましたね?
 代目 福井ゆき子さん (以下:三代目)
「ご縁のある被災地から届いた、大漁旗をリメイクしたエコバッグやアクリルたわしを、店頭にて委託販売いたしました。もちろん、売上はすべて製作なされた皆さまに、還元させていただきました。」
三代目が手にしているのはアクリルたわし。
 二代目  「神楽坂というまちは、私にとって育ててもらった場所なんです。商売を通じてお客様に育てられ、地域の皆さんに支えられて、いまの福屋があります。だからこそ、この場所に少しでも恩返しがしたい。その気持ちはずっと変わりません。自分にできることは限られていますが、いまできることを一つひとつ丁寧に積み重ねていきたい。そんな思いで、これからもこの場所に立ち続けていくつもりです。」

未来の誰かが「なつかしい」と言うために

せんべいづくりの現場はどうなっているのでしょうか?
 二代目  「現在、神楽坂の店舗ではせんべいを焼いていないんです。建物の老朽化でビルに建て替えるタイミングで、製造拠点を草加に移しました。昔から働いてくれていた職人に土地を用意し、私たちが全面的にバックアップするかたちで独立してもらったんです。今もそこで、福屋の味を守りながら焼き続けてくれています。技術の継承という点では、若い弟子が毎朝4時半に起きて草加まで通いながら、焼き方を学んでいますが……。」

 三代目  
「問題は“焼く技術”だけではありません。」
......というと?
 三代目  「それを支える道具や設備ですね。たとえば、うちの厚みやサイズに合った焼き網は、特注でなければ作れない。既製品では生地がこぼれてしまう。茨城に良い網があると聞いて、急いで車を走らせ買いに行ったこともありました(笑)。それも偶然条件が合っていたからこそ使えただけで、次はもう無いかもしれない。草加で使っている窯も古く、その職人がいなくなれば新しい設備を探すしかないのですが、この釜はもう誰も作っていないとも言われています。つまり、道具が壊れたら替えがきかない。そんな不安が常にあるんです。また、最近は硬いものが苦手な子どもたちも増えています。噛む機会が減り、奥歯や口の筋肉が十分に育っていないことが背景にあるそうです。昔ながらのせんべいの食感をどう伝えていくか、これも今後の大きな課題です。」
 三代目  「昔ながらの手焼きせんべいを続けていくことが、年々難しくなってきています。道具も技術も失われつつあるなかで、決して簡単な道のりではありませんが、それでも“この味が好き、懐かしいね”と訪れてくださる方がいる限り、私たちはせんべい作りを続けていきたい。伝統を守りながら、時代に合わせた工夫も取り入れ、これからも神楽坂で、せんべいのある風景を残していけたら……それが、私たちの願いです。」
二代目は振り返ります。「このまちに育ててもらった」と。三代目は、その言葉を胸に「次の時代へと繋ぐには、何を残すべきか」を模索しています。

今回、取材にご協力いただいたのは二代目、三代目店主の福井さん。
お店で会えたら「かぐらびと見ましたよ!」ってひと言、頼むな!

店舗情報

店名
毘沙門せんべい 福屋
住所
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂4-2
営業時間
月~金 10:00 - 19:00
土   10:00 - 18:00
定休日
日曜日、祝日
駐車場

この記事を書いた人

かぐらむら編集局

隠れた名店や話題の最新スポットを実際に訪れ、取材しています。神楽坂を知り尽くした編集局ならではの視点で、皆さまに新たな発見をお届けします!

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