戦後からの寺の復興とまちの発展


神楽坂・声のライブラリー  第5弾

「毘沙門様と神楽坂の発展」
神楽坂で一番有名な場所といえば毘沙門天善國寺。文豪泉鏡花の詩「一(ひと)里」にも「毘沙門様は守り神」と繰り返し謡われている。約400年を超える歴史があり、日本橋馬喰町から麹町そして神楽坂へと大火のたびに移り、神楽坂に来て約200年となる。現在の嶋田住職は、第33世。先代の住職である父から命を受け、20代の時に神楽坂に赴任。戦後の東京が経済復興をしていく中で、毘沙門天善國寺の本格的な復興をミッションに、まちの発展とともに歩んできた嶋田住職の55年の思いをお聞きした。


 
収録風景(左/嶋田尭嗣住職、右/長岡弘志)

■令和3年1月12日から一挙配信スタート!
第1回「神楽坂に赴任してから」:1時間8分13秒
第2回「まちとともに歩いた55年」:1時間16分5秒
企画制作:(有)サザンカンパニー
  出演:毘沙門天善國寺嶋田尭嗣住職、聞き手:長岡弘志(有)サザンカンパニー代表
  配信: LisBoホームページ:https://www.lisbo.jp/
  LisBo(リスボ)より令和3年1月12日から配信

■出演者:毘沙門天善國寺嶋田尭嗣住職 
昭和21年生まれ。同40年4月明治大学商学部入学。44年3月卒業。44年立正大学仏教学部編入学。46年3月卒業。46年4月川崎市役所民生局厚生部福祉課就職。56年6月退職。
昭和46年11月毘沙門天善國寺本堂・毘沙門堂・庫裡・書院落成式。56年善國寺副住職。
平成5年4月善國寺住職就任。平成6年10月14日開創400年記念事業完成式。


 

■第1回:神楽坂に赴任してから
 
「チチ、カグラザカ、キマル、スグ、カエレ」
嶋田住職が大学2年の夏休み、友人らと九州旅行の途上に届いた父からの電報。父は川崎市内の寺の住職を務めていたが、神楽坂の善國寺の兼任が決まったという知らせであった。都内の大学に在学し、将来は貿易商社への就職を希望していた嶋田住職は、進路変更を迫られることになる。高校の恩師や大学ゼミの担当教授に相談し、悩んだ末、大学を卒業後新たに仏教系の大学へ学士入学をする。昭和41年、学生でありながら初めて神楽坂の毘沙門天善國寺に務めるところから話は始まる。

 

本格的な寺の再建というミッション
江戸時代から開運、厄除け、商買繁盛の「毘沙門様」として多くのひとから親しまれ、神楽坂のまちの発展とともに歩んできた毘沙門天善國寺。日蓮宗の宗門の中でも、別格であった善國寺といえども、昭和20年4月の空襲で寺の建物は全焼し、仮本堂と毘沙門堂が再建されたのは昭和26年。その間、戦後の6年間は、お寺の建物が無い状態であった。まだアメリカ軍占領下で建材や職人を集めるのも困難な時代、寺の裏の敷地を売って工面したお金で毘沙門堂と仮本堂を建てたのである。しかし、昭和41年、はじめて神楽坂にやってきた頃には、その毘沙門堂と仮本堂はあったものの、住職らが寝起きする庫裡は、バラックのような粗末なもので、お寺の本格的な再建までは、ほど遠く厳しい道のりであった。

 

再建に奔走した父
神楽坂に着任してから、住職の一番の思い出は、昭和46年の本堂の落慶式で、なかなか忘れられない日でしたと語る。新しい本堂と庫裡、書院などを整備し、お寺の本格的な再建を目指すものの、なかなか周囲から積極的な賛同を得られず、建築費の目途もたたない日々が数年続く。もともと檀家さんの数も少なく、商店街や料亭・芸者さんの組合の協力を得ようにも思うようにはいかなかった。そうした中、先代の父と有力者だけの資金でできるところまで進めようと決断した。見切り発射だった。その覚悟をみて、着工がはじまってから商店街などまちの人々の支援がはじまったという。

 

朱色の山門と本堂が完成して通りが明るくなる。
 

新宿区の文化材に指定されている石虎

昭和46年、落慶式の思い出
そして無事に竣工して、落慶式の日を迎えた。昭和46年、秋晴れの日、たくさんのまちの
人々が繰り出して盛大に祝ってくれた。祝いの行列は、鳶のカシラを先頭に、手古舞姿の芸者衆、稚児さん、その後に太鼓をたたく日蓮宗の宗徒、そして纏(まとい)と万灯の行列。小さいときからその太鼓の音を聞いて育ってきた住職にとってその瞬間は感無量でしたと。当時はまだ先代の父が住職の時代であり、再建のため奔走してきた父の思いもまた同じ思いであった。やっと毘沙門天善國寺再建という戦後からのミッションが果たせた。なによりも感動したのは、まち中の人が秋晴れのもとお寺の完成を祝ってくれたことだった。

 

落慶式の日、あでやかな手古舞姿の芸者衆


■第2回:まちとともに歩いた55年

昭和26年建立の毘沙門堂がなつかしい
昭和26年から45年頃まで神楽坂通りに建っていた毘沙門堂は、実は今もその姿のまま拝観することができる。市谷薬王寺にある同じ宗派の蓮秀寺に移築されているからだ。戦後間もなく建てられた毘沙門堂は、当時の姿のまま時間が止まったように建っている。嶋田住職は、いまでも同じ宗派のお寺なので訪れることがあり、その度になつかしいと語る。

 

昭和26年から45年頃の毘沙門堂(今は移築されて市谷薬王寺連秀寺)

100日間のきびしい修行
神楽坂の通りを歩いていると、激しく木を打つ音が鳴り響ていることがある。その激しさに驚く人がいるのではないか。それはご祈祷をしている音とのこと。きびしい修行をした者でないと祈祷は行えないという宗派の掟。11月1日から2月10日まで100日間、毎日7回3時間ごとに冷水ををかぶる荒行は、一度は通らなくてはならない修行。嶋田住職が20代に経験した時の荒行を聞く。

 

節分の日は、まち中の人が豆を撒きに参加して鬼を払う
 

節分の日は太神楽が出演する

まちがあってのお寺、お寺があってのまち。
新しい本堂や書院、庫裡などが完成し、毘沙門天善國寺に訪れる人は目に見えて増えてきた。また書院を利用しての落語会や、神楽坂芸者衆の「華の会」などまち全体がにぎわってきた。一年を通じて、節分、花まつり、ほおずき市、阿波踊りなど多くの行事の舞台として親しまれてきた。さらに江戸時代からの地割りをそのまま残す路地や横丁をめぐるまち歩きは、神楽坂の名物のようになり、その集合や解散の場所としても毘沙門様は大きな人気スポットになっている。ご住職は、若い僧職に就いている人にこう語る。「お寺は、信仰の道場であると同時に、社会に様々なものを還元する場所でないといけない」と。まさに「まちがあってのお寺、お寺があってのまち」なのである。

 
神楽坂夏まつりでにぎわう境内

今はコロナの感染拡大で、社会が不安におちいっている時代。宗派が開かれた鎌倉時代も生きていくうえで多くの苦難があった時代。いままで共存共栄でまちと歩んできた毘沙門天善國寺、これからもまちに寄り添っていけることをのぞんでいますと嶋田住職は語る。
 

新宿区の文化財となった石虎の前の住職


インタビューを終えて
 
第6弾「赤城神社の再生とまちの発展
第5弾「毘沙門様と神楽坂の発展
第4弾「神楽坂の文化イベントはどのように作られたのか?
第3弾「生まれも育ちも神楽坂
第2弾「抱月・須磨子の藝術座の不思議
第1弾「神楽坂と新内
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