
「神楽坂かぐら連」は今年で創立40周年を迎えました。そこで、40年間の歩みを振り返ると共にこれからの「かぐら連」の事について述べてみたいと思います。(文:神楽坂かぐら連 会長 石井要吉)
「神楽坂 阿波踊り」の始まり
今年で43回目を迎える「神楽坂 阿波踊り」は昭和47年に第1回目が開催されました。
大阪万博が開催された昭和45年、神楽坂通りで毎日曜日に歩行者天国が実施される事となりました。
今までの夏のイベントに替わる歩行者天国を生かした地域に相応しいイベントとして神楽坂通り商店会で考えたのが「阿波踊り」でした。神楽坂に近い牛込見附の大名普請を江戸時代初期に担当したのが、阿波徳島の蜂須賀家だったという故事に因むとの説もあります。

「かぐら連」の創立
昭和47年の「第1回 阿波踊り」では、「娯茶平連」「天恵連」といった本場徳島の有名連が出場しました。
翌年の「第2回 阿波踊り」からは、徳島からは「うず巻連」が、地元神楽坂からは各種団体また企業連が参加し、また高円寺からは「天狗連」「あすか連」「花菱連」「葵新連等」が参加して開催されました。
第2回大会終了後の反省会で、第1に主催者である商店会を中心とした連が必要である事、第2に鳴物が不足して居り地元による囃子方の育成が急務であるとの結論に達しました。そこで昭和49年、商店会では平太鼓、締太鼓、鉦、篠笛を購入し、同年5月より「高円寺天狗連」の中村連長他4名の指導の下、商店会役員を中心に10回に亘る猛特訓を実施し、夏の「神楽坂阿波踊り」に出場する事となりました。ここに「かぐら連」が誕生しました。
「かぐら連」指導者の群像

昭和40年代後半、神楽坂阿波踊りの開始、そして「かぐら連」の創立に深く関わったのは、「神楽坂納涼阿波踊り実行委員長」を担当した山下東さんでした。
その後、昭和50年代始めより河合雅一さんが連長となり、以後30余年に亘り「かぐら連」の連長を務められました。
その間、平成4年には新宿区在住であった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の郷里であるギリシャ・レフカダ島で阿波踊りを披露するために新宿区内の6連の中の1連として「かぐら連」が遠征しました。また平成8年にはイタリア・ヴェネティア遠征に加わり、平成11年にはフランス・パリ遠征にも「かぐら連」は参加しました。

遠くギリシャまで遠征した新宿区民俗舞踊レフカダ訪問団

レフカダ訪問団の報告パンフレット
平成19年晩秋、河合連長さんは病で亡くなられました。河合さんのあと、「かぐら連」連長を務めたのが山下修さんでした。
平成の始め頃より、本場徳島の有名連を中心に新しい踊り方・囃し方の動きが始まりました。この徳島の動きが、高円寺の有名連に波及し、「高円寺天狗連」の姉妹連である「かぐら連」にもその新しい動きは伝搬されて行きました。
そんな動きの中で、「かぐら連」でも今まで慣れ親しんだ従来の踊り方・囃し方を支持するグループと、「高円寺天狗連」が新たに導入した新しい踊り方・囃し方を支持するグループが存在する事となりました。この様な連内の考え方の違いを上手く纏めて連の運営に当ったのが、山下修さんでした。

「かぐら連」の連長を務めた山下修さん

高円寺にて「かぐら連」
しかし平成21年3月下旬、山下修さんは病に倒れました。
平成24年には、「かぐら連」総会において磯豪一さんが新たに連長に選任され今日に至っております。
平成26年始め、「かぐら連」は40年前の当初よりご指導を頂き、今日まで良好な姉妹連関係を継続している「高円寺天狗連」の踊り方・囃し方を踏襲する事としました。 また従来からの「かぐら連」の踊り方・囃し方を支持する方々は新たに「東京神楽坂連」を結成する事になりました。
これから「かぐら連」の目指すもの
「かぐら連」の目標は「神楽坂地域において阿波踊りを通じて地域貢献をしていくこと」です。
今夏の「こども阿波踊り」には1000名を越える牛込地区の区立小学校・幼稚園・こども園・保育園等の児童・園児が参加しています。昨年からは文京区立の幼稚園児も参加しています。これらの子供達の踊りの指導を担っているのが、「かぐら連」です。また地域の企業連への踊りの指導にも当っています。更に、地域にある高齢者施設への慰問も実施して来て居ります。
「神楽坂阿波踊り」の主催側の地元連として、地域に愛され親しまれる連となれます様にこれからも活動を続けて参りますので宜しくお願い申し上げます。

20年以上前の子ども連

豆絞りが粋な子ども連の踊り
神楽坂かぐら連
山下弘子さんに聞きました「一番感謝したい人」
当時踊りの本番の日は、午後2時から集合の6時までの間に大人24人ぐらいの着付けをしました。場所は前の料飲組合の事務所です。女踊りの着付けは、前が三角、後ろも三角にしなくてはいけないのでむずかしいのです。一人ひとり体型がちがうので、格好良く着せるのが最初は大変でした。
「かぐら連」の着付けを担当したのは、私と河合(陶器店)さんのお嫁さんです。河合さんのおばさんは、着物、帯、帯揚げ、けだし、笠など20人以上をひと通り準備して、一人ずつ渡す役でした。

河合さん宅の二階には踊り子さんの衣装がずらりと並んで倉庫代わりになっていたそうです。商店街の持ち物でしたから、渡した相手を記録しておいて返してもらったらクリーニングに出すのですが、なかなか全部は戻らないので悩んでいました。私は当時の阿波踊りの陰の功労者として、誰よりも河合さんのおばさんを褒めてあげたいのです。
「かぐら連」が高円寺や月島へ遠征をする時には、必ず私と河合さんのお嫁さんとおばさんがついていきました。予備の下駄など必要な小道具を持って踊りについて歩き、着くずれや下駄の鼻緒の調節をしたり、気分の悪くなった人の介護などにあたったこともありました。
今は孫たちの代に受け継がれていますが、5、6年前までは手伝っていました。阿波踊りの最初の頃のことは、とにかく忙しくて大変でしたが、今思うと懐かしくて楽しかったですね。
河合さんのおばさんにはご苦労様でしたとお礼を言いたいですね。
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