あたり前のことですが、何かが終われば、必ず何かがはじまります。街はいつでも進行形で、生き物のように世代交代を果たしながら変わってきました。小誌はそんな中、90号を区切りに一つの冊子をまとめました。『この街のこころを、これからの人へ・神楽坂福読本』です。

この中で書かれていることは、主に戦後から平成26年頃までのお話です。それからのことと、これからのことは、まだ書かれていません。そこで新しく5人の方に、これからの街との関りについて書いてもらいました。

地元企業や大学と手を結ぶおかみさん会

神楽坂おかみさん会代表 飯田公子(龍公亭三代目)

正式名称は「神楽坂文化振興倶楽部」です。地元神楽坂で生業を営むおかみさんたちが集まって作った会なので、通称「おかみさん会」と呼んでいます。会をはじめるきっかけは4年前に遡ります。泉鏡花の生誕140年を機に生誕地である金沢下新町と、作家として活躍した東京神楽坂の住民有志が集まって作った“鏡花を追ってプロジェクト”です。発起人は金沢の北國新聞社で、作家の嵐山光三郎先生が顧問でした。金沢と神楽坂がそれぞれイベントを企画し、双方で参加し合って交流を深めました。ともに花柳界のあるまちなので芸者衆による踊りの会などもともと交流はあったのですが、さらに泉鏡花つながりでさまざまな企画が生まれました。たとえば神楽坂では、料亭「うを徳」や中華料理店「龍公亭」で鏡花作品の朗読劇を劇団唐組の協力を得てやりました。原作に忠実な脚本や、新しい解釈等、朗読劇そのものが大変意義のある実験的な取り組みだったものですから、鏡花研究家の方々も遠方から観に来てくださいました。その後の懇親会も和気あいあいとした交流の場になったことは楽しい思い出のひとつです。ふたつの町の写真展や鏡花本の装丁展もやりました。

金沢の町を挙げての文化イベントは、伝統工芸、伝統芸能に対する下支えにもなっています。私たちは、この交流を通して多くのことを学びました。“鏡花を追ってプロジェクト”は北陸新幹線が開通し、文化交流の当初の目的を果たしたとして二年前に解散いたしました。

しかしこのことを契機として、私たち一介の住民にもいろいろなことが出来ることを学びました。私自身、人と人とをむすびつけることが楽しくやりがいのあることだと感じたのです。いろいろなイベントを企画して多くの方に参加していただく、そしてこの神楽坂という土壌にはぐくまれた豊かな文化をともに享受することができたら、ここはもっと魅力的なまちになるのではないでしょうか?

このまま終わったらもったいないという意見と、鏡花に限定せずもっと神楽坂にゆかりの文学者全般に範囲を広げていったらどうかしらという意見と、けんけんがくがくと話し合っているうちに新しい会が生まれたのです。そこで“鏡花を追ってプロジェクト”でお世話になった嵐山先生のお言葉を思い出しました。

「これからは女性中心の活動がいいですよ。女性は発想がやわらかいからいいんです」幸い、志をひとつにするおかみさん会のメンバーが13名集まりました。

とは言ってもおかみさんたちは、毎日店を陰に日向に支える多忙な方ばかり。文化活動などは未経験の素人集団ですからたいしたことはできません。しかしそれであきらめないで、地元の企業や大学と手をつないでやれば、何かできるかもしれないと思いました。

具体的な活動としては、東京理科大学に協力を仰ぎ、毘沙門前の森戸記念館の中に神楽坂の歴史資料を展示したコーナーを作りました。また新潮社とは、「神楽坂ブック倶楽部」を立ち上げ、今春には“一箱古本市”をまちの中で開催しました。さらにギンレイホールや大日本印刷、ゼブラさんにもご協力いただき、さまざまな企画を進めています。

スタートに当たり、神楽坂に事務所のあるグラフィックデザイナーの松永真さんに「神楽坂文化振興倶楽部」のイメージポスターを作っていただきました。松永デザインを使ったオリジナルボールペンやエコバックをはじめ、文芸地図などを随時販売しております。売り上げは活動資金にさせていただいておりますので、お目に留まりましたら、ご協力をお願いいたします。

今のところ月一回の会合は必ず開くようにしています。毎回全員集合というわけにはいきませんが、みなさんなんとか都合をつけて参加してくださっています。

肩肘を張らずに、できることから始めましょうというのがモットーです。皆様、これからもどうぞおかみさん会をよろしくお願い申し上げます。

 

あたり前のことですが、何かが終われば、必ず何かがはじまります。街はいつでも進行形で、生き物のように世代交代を果たしながら変わってきました。小誌はそんな中、90号を区切りに一つの冊子をまとめました。『この街のこころを、これからの人へ・神楽坂福読本』です。

この中で書かれていることは、主に戦後から平成26年頃までのお話です。それからのことと、これからのことは、まだ書かれていません。そこで新しく5人の方に、これからの街との関りについて書いてもらいました。

世界とつながる街「神楽坂」

貞、フラスコ代表 日野貞明

2001年に雑貨店、「貞」を2007年に「ギャラリーフラスコ」をスタートさせました。生活人として約40年、仕事人として15年以上、神楽坂を見続けてきたことになります。

15年前、店も街も共存共栄的に未来永劫成長し、どんどん豊かになることがあたりまえだと疑いもせず始めました。それが2008年以降、世の中が大きく変動したことで、全てにおいて維持することさえ難しい時代になりました。

その上で今、感じていることは、これまで長くまちづくりに関わってきた人たちが作りあげた古き良き神楽坂の成長は無くなりつつあるということです。古きは無くとも、良き神楽坂を望むのであれば、次の新しき良き神楽坂のまちづくりを始めなければなりません。

私自身“街でお店を運営する”をこれまで以上に考えます。実際お客さんに話を聞くと、神楽坂に行くというよりお店に行くという人たちがとても増えています。魅力あるお店がたくさんあれば人は集まり店を通して街を楽しみます。

自分が運営しているギャラリーもその一つ。全国から展示をするために作り手が来てくれて展示を見に様々な場所から人が集まります。その時に街全体で面白いイベントを開催していればもっと楽しめるでしょう。そのイベントが地方と密接な関係でつながっていれば大きく街が賑わいます。

現在行われている神楽坂のイベントでイメージに近いのは「ドーンと福井 in 神楽坂」。各店舗とつながり福井をアピールしています。福井も神楽坂もどちらもメリットが生まれ、お客さんも楽しんでいる姿をよく見ます。とても大きなポテンシャルを秘めていると思います。これをもっともっと膨らませ広く日本全国と、いや世界とつながる街「神楽坂」になる。これから先の新しき良き神楽坂はこれしかない!と勝手に思っています。なんだか壮大で妄想かもしれませんがとてもワクワクしませんか? それを可能にする神楽坂の土台のポテンシャル、交通の便が良いとか、生活のしやすい環境であるとかそういう根っこの部分は今までもこれからも変わらない神楽坂のメリットです。

これはリアルに世界とつながりやすいメリットで、最大限に生かしたい。神楽坂に根を下ろす一人として坂本二郎さんの語った「途切れることなく思いをリレーしていくまちづくり」を大切にしています。「神楽坂にお店があります!」と誇りのバトンを次の世代に渡していきたいとそう望んでいます。

 

 

着物姿も粋に、神楽坂の語り部、二朗さん何処へやら

ココットカフェ店主 増井敦子

“まちづくりは永遠に未完であり、常に進行形、途切れる事無く、思いをリレーしていく、遠慮なく本音で話せる場所、機会づくり”などを提唱し、神楽坂まちづくりの会会長として、最後迄この意志を貫き通した坂本二郎さん。神楽坂四代目坂本商店店主にして、名ガイドだった。彼の着物でのガイド姿を見なくなって、はや数か月。

 

二朗さんがここ迄着物を愛用するになったのは、東京都主催の観光ブランナー塾からだ。まちづくりの会(当初は新宿区が中心になり、その後は商店会の有志が中心の会)は、街の活性化のために立ち上げた組織で“まちづくり憲章”は、神楽坂の街づくりの今でも根幹として生きている。プランナー塾に山下漆器店の修さんと参加し、そこで出会った女性達の考え方に共鳴し、私が加わることになって翌年の雛祭り前夜に企画された“きもの百人・雛の会”。その会で坂下から当時、趣のあった赤城神社までを百人近くの着物姿のお連がねり歩いた。それが朝日新聞の首都圏版にも掲載されて、その後、このイベントは、着物随筆家の君野倫子さんのトークショー、女流若手作家さんを中心としたワークショップ、着物での街歩き等を交えて発展。10年後神楽坂きもの倶楽部と名称を変更して“まち飛びフェスタ”の和小物イベントとして定着して来ている。

このイベントを通して、川越のNPO法人“きもの散歩”とも繋がり、足袋の街、行田へも出向き、今でもこのご縁は続き、行く先々で二朗さんと増井は、神楽坂きもの親善大使のようだった。毎回着物で参加させていただき、この頃から二朗さんも着物でのガイドが板に付いてきた。話に聞くところ着物のいただきき物も時々あったとか。(ご自身でそんなに購入していた訳ではないのらしい)着物姿は年を重ねるごとに、似合っていた。粋にみえたのは二朗さんの生き方そのものかもしれない。

作夏、京都に行くにあたり思い切って、夏用の麻の御召しと紗の羽織を誂えて、その姿を神楽坂の住民は見ることなく、彼は逝ってしまったが、その着物は、ご長男さんが譲り受けるとお聞きして、二朗さんの口癖だった“街は、よそ者と、馬鹿者と、若者が作る”という言葉を思い出した。新たな若い力がまちづくりに携わってくれることが、この街の魅力を絶やさないことにつながると実感。若い人の渦中に何時も収まっていた二朗さん。残された人は、先に逝った人から宿題を課せられていると聞いたことがある。二朗さんの思いを受け継いでいけたらと思う今日この頃でございます。

 

 

「10年後も、執着(終着)しない神楽坂」

モルスハルス株式会社 小原州開

―15年前からー

私が神楽坂を知ることになったのは、15年前にプリクラやゲームソフトを世に出していましたアトラスに勤めることになったからです。当時、神楽坂の街を歩くと人通りは少なく、閑散としていた商店街だったことを記憶しています。

そして、8年前には、神楽坂でとっても美味しい食事をしながら異文化交流(十人十色)を楽しむ会として「神楽座会 (かぐらざかい)」を開催していました。この神楽座会では、まったくの見知らぬヒトや知人・友人同士がお互いの個性を確認することができて、情報交換しながら自身を見つめなおしたり、気づきになったり、発見したりと、参加者の数は回を重ねるごとに8人、10人、33人、50人、55人と増えていきました。

参加者と話すうちに改めて気づかされたのは、この神楽坂という場所に多くの方が興味を持っていること、同会に参加することで神楽坂に行く動機付けになっていたということでした。この神楽座会は5年ほど経過した24回目の開催を最後に一旦休会しています。その理由の一つとして、神楽坂付近に住んでいる方があまり参加していなかったことが挙げられます。

このようなこともあり、神楽座会を休会する少し前から、実際に私自身が神楽坂に住むようになりました。その頃から土日は賑わいを見せ、オシャレな街並みで飲み屋がすぐ近くにあって良いね、などと友人や知人に言われることが多くなりました。ほとんどの方が、神楽坂に対して良い印象を持っていることは非常に嬉しく思います。

移住して5年が経ち、私なりに思う神楽坂の魅力は3つあります。

(1)「かぐらざか」という言葉の響きが良い。理由は分からないですが、印象に残るようです。

(2)特に特徴があるわけでないが、同じ道を通っても飽きることがない。坂が多いですが、なぜか苦にならないのです。

(3)街に溶け込みやすい。

渋谷・原宿にいる自分に違和感を感じてしまうのですが、神楽坂だと自然にいられます。

―これからの10年―

私が考える今後の神楽坂の変化と進化を楽しみに、妄想したことを書き留めてみます。

(1)神楽坂という地名

現在、1丁目から6丁目までの神楽坂が拡張して、7丁目以降が増える。理由しては、神楽坂という名称を武器に住む人を増やすしていくためです。

(2)個々の発信力向上

一人ひとりの行動が神楽坂にとっての底力に。個々の得意技を集結することで、次世代の街を支える礎を築くことになる。

ほんの小さな文化や伝統を取り込んだモノ(クリエイティブ)を創出し、個々の発信力により、次世代への興味を引き、集客・集結のきっかけとなる。

(3)商店会がなくなる。

個々ベースでの活動が主になり、名称は地域サポート会という名称に変わっているかもしれません。(現在の商店会はあくまでもサポート的な存在として活動が集約される)

新しいコト、モノ、ヒトを受け入れる度量があり、よい距離間の人と街があり、接点機会の構築が神楽坂にはあると大いに感じています。色々書いてはしまいましたが、今後の10年後も、20年後も、さらに愛着ある神楽坂になっていることは間違いないと確信しています。

(1)から(3)の妄想は、神楽坂がいつまでも執着(終着)しないでほしいという願いでもあります。

 

 

「学びと路地」

AYUMI GALLERY CAVE 鈴木歩

2015年、AYUMI GALLERYの新たなスペースとして「CAVE」をスタートさせました。主に若手の現代アート作家を、国内外問わずに紹介しています。

これからの神楽坂ですが、飲食店ばかりになってしまうと面白くないと思います。街から何かを学べるような感覚がもっと必要なんじゃないかと思っていて、神楽坂のことはもちろんのこと、日本の作法や文化的な素養を、カジュアルに、外国の方も含めて、教えてくれるような街が神楽坂らしいかなと思っています。海外から神楽坂に来てくれた友人を案内する機会が多いので、特にそう感じるのかもしれません。ふらっと立ち寄ってワークショップが受けられたりとか、講演を聞けたりだとか、そういう日常的なサロンスペースがもっと増えていってほしいです。物を売るだけではなくて、人を育てようとする街であってほしいと思います。

それと、母の「よこみちプロジェクト」にもつながるかもしれませんが、ちょっとした路地に入って見つける楽しみを大事にしていってほしいです。私のギャラリーのように、普通のビルの地下に急に現代アートの空間が広がったり、小さなお店に入った途端別世界にいるような気分になれたり、それぞれ全く違った空気を楽しめる空間が、路地裏や様々な場所にあったらいいなと思います。神楽坂は特にそういった空間や、小さいのだけれども中身が詰まったお店を作りやすい街だと思うので、もっと路地裏も楽しくなるといいなと思っています。そして個人的には今、仕事帰りの銭湯巡りを楽しんでいます。神楽坂・早稲田エリアにはまだ数々の銭湯が残っていて、手ぶらで行けるところや、深夜まで営業しているところもあります。街歩き一つをとってみても、色々な楽しみ方ができると思います。ぜひもっと神楽坂を楽しんでいただければと思います。





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