
神楽坂界隈にはあまり知られていないが、さまざまな職人の仕事場がある。料理、菓子、繊維、皮革、金属、染色等など。少し時代を遡れば、足袋、三味線、日本髪の鬘などの職人もいた。ところが長引いた景気低迷を経て神楽坂では、モノづくりが貴重な存在になりつつある。そこで本誌では、ひたすら技術・技能の研鑽に励んでいる「現代のマイスター」の仕事場を訪ねてみた。
(新宿区と東京都では、すぐれた技術・技能をもち、後進の指導にもあたっている職人に対して「マイスター」として認定している)
構成:編集部/撮影:田邊 美樹
花鳥風月の繊細な形と豊かな味
井上豪(「神楽坂梅花亭」)/平成26年度新宿ものづくりマイスター「技の名匠」認定

「神楽坂梅花亭」は、昭和10年に創業。戦前は新宿の十二社で、戦後は池袋で約60年、神楽坂では12年目にあたる。井上豪さん(44歳)は、その4代目。創業者の祖父は、90歳まで現役で、昨年105歳で天寿を全うした。井上さんは父が早世したために、祖父を師として菓子づくりに励んだという。その祖父がシベリア抑留中に考案したのが「鮎の天ぷら最中」。ふるさと越後での少年時代、母のつくってくれた揚げ餅の味が忘れられず思いついたという。当店の名物だ。井上さんは、中学生の頃から門前の小僧で、祖父の店で菓子作りを手伝ってきた。


平成26年度の受賞で、特に高い評価を得たのが、上生菓子(練きり)の「はさみ菊」。普通は大ぶりの球形だが、現代風に小さく仕上げる技にも卓越している。
和菓子は、自然界の形を表現したものが多く、花鳥風月を表す井上さんのレパートリーは、約200種類に及ぶ。繊細な造形は、芸術作品のようで食べるために形をくずすのが惜しい。学生時代に洋画を専攻したことが活かされているのかもしれない。繊細なのは、形だけではない。たとえば餡だけとっても、配合を変えて23種類もの餡をつくり分ける。通常では、3~5種類ぐらいの餡ですむところをである。職場では、現在8名の和菓子職人をめざす若い人たちの指導にあたり、厳しくも楽しい和菓子づくりの技術を伝えている。

新宿区神楽坂6−15(本店)
新宿区神楽坂2−6(ポルタ神楽坂店)
☎03・5228・0727
25年励んできた美しい靴の真価
捧恭子(ベルパッソ)
平成24年度新宿ものづくりマイスター「技の名匠」認定
平成27年度優秀技能者(東京マイスター)知事賞受賞

捧さんのつくる靴は、斬新なデザインと機能的な基本設計が見事に調和したオリジナリティの高い靴。たとえば自由なデザインを求めて左右非対称の靴をつくろうとすると、型紙づくりはハードルが高くなるが、それを独自の設計と技術で可能にしている。ヒールの高い靴でも、重心がきちんとヒールの中心に乗り、体重の圧力が靴全体に分散し、長時間でも疲れにくい。安定性の高い設計になっている。また安定性に加えて、靴を履く人の姿勢や歩き方にもさっそうとした美しさを求める靴である。 「ベルパッソ」とは、イタリア語で美しい・心地よい(ベル)一歩(パッソ)という意味。
美術大学を卒業後、ファッションメーカーでテキスタイルデザインを経験後、婦人靴の世界に入った。その理由は「自分で発想して、完成するまですべての工程をつくる仕事がしたい」というものだった。国内のメーカーと靴の学校で学び、靴の本場イタリア・ミラノで高い技術を習得した。帰国してからは個展を開催。大手婦人靴ブランドのデザイナーをしながら、「ベルパッソ」の活動を継続し、十数年前に「ベルパッソ」のみで一本立ちした。

左)「白樺」の枝をモティーフにしたショートブーツ。カーフとカーフメッシュのコンビ。
右)「カキツバタ」をイメージしたバックバンド。絞り染を施した鹿革とカーフで表現している
今年は「ベルパッソ」創立25周年。捧さんの靴を理解する人は、長く愛用する人が多い。中には、捧さんが靴学校の卒業制作の靴のデザインを気に入って今も履いている人がいるという。昨年末にクリスマスと暮れのあいさつを兼ねたカードをお客様に出したところ、年賀状に「(捧さんの靴は)私の宝物です」と書かれたものが何通かあったという。25年かけて励んできたモノづくりの真価が報われてきている。


新宿区神楽坂3-6 佐藤ハウス1F
☎03・5228・6528
革素材の特長を最大限活かす職人技
鮎澤剛(鮎藤革包堂)
平成24年度新宿ものづくりマイスター「技の名匠」認定
平成27年度優秀技能者(東京マイスター)知事賞受賞

鮎澤さんは、鞄がつくりたくて19歳で長野県から上京。都内の鞄メーカーで3年ほど勤めた後、23歳から本格的に修行をはじめた。爬虫類を専門に扱う昔ながらの職人気質が色濃く残るメーカーだった。職人として一本立ちするための心構えや生き方まで、すべてが修業になったありがたい経験だったと鮎澤さんはいう。 鮎澤さんの卓越した技術は、牛革から爬虫類、オーストリッチ、象など幅広い革の素材を、それぞれの持つ特長を最大限に活かした、丈夫で美しい革製品をつくりあげる技術にある。
鮎澤さんの工房では、たとえば鞄をオーダーメイドすると、注文者の用途からはじまって、鞄に入れるもの、持ち方の癖、普段の暮らし方、素材の好みまでをうかがってから製作にはいる。鮎澤さんは、これらの調書をもとに、素材選び、デザイン、型紙起こし、裁断、縫製、これらの作業をすべて一人でこなしている。小さなものでは、ペンケースから財布、鞄、大きなもので珍しいものではクロコダイルのトランクまでつくる。


上)鮎澤さんの手仕事による鞄が並ぶ棚
下)クロコダイルのシステム手帳、パイソンのキーケース、万年筆ケース
神楽坂で独立開業したのが34歳。今年で10年目を迎える。独立目的で退社を申し出た時、結婚をしないと許されなかったという。職人として所帯をもつことの大切さを教えてくれたのだ。またお礼奉公ということで、退社後に外注先となって1年半のお礼奉公も果たした。また工房を構える以上、地元の町会に入り、町の行事など人々の付き合いも大事にしろと先輩から教えられたという。こうした鮎澤さんの神楽坂の工房を訪れる人は多く、世界に一つだけのモノをつくってもらいたいと願っている。

新宿区筑土八幡町5−12
☎03・3267・0409
※小誌「かぐらむら」では、昔ながらの職人から、現代の「マイスター」まで、モノづくりの幅広い人々をこれからも取材紹介していきたいと考えています。
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