神楽坂は伝統芸能が盛んなまち。路地や横丁には、三味線や謡いのお稽古をする声が流れています。今回の特集は、伝統芸能の世界で活躍されている方々にお集りいただき、ふだん敷居が高いと思われている伝統芸能について、自らの体験を中心に、本音で語っていただきました。
(撮影:田邊美樹)
【出席者】花柳貴比(日本舞踊花柳流)/鶴澤寛也(女流義太夫三味線)/鶴賀伊勢吉(新内節鶴賀流)/一龍斎貞寿(女流講談師)
【司会】鶴賀若狭掾(人間国宝・新内節鶴賀流家元)/長岡弘志(「かぐらむら」編集長)
鶴賀 本日は伝統芸能の世界で、次の世代の担い手となる方々で、神楽坂に稽古場のある方や、神楽坂に縁のある方にお集まりいただきました。この座談会でそれぞれの伝統芸能の世界について思う存分語っていただければ、これからこの世界を目指す人々に役立ってもらえるかと思い企画いたしました。どうぞよろしくお願いします。
この道に入ったきっかけ
貴比 花柳貴比と申します。三歳から日本舞踊をやっています。神楽坂には十四年前からご縁があって稽古場を開かせていただいています。
貞寿 講談師の一龍斎貞寿です。一龍斎貞心師匠の許に入門して十二年目。まだ二ッ目の若輩者でございます。
伊勢吉 新内節の鶴賀伊勢吉です。ご存知のように鶴賀若狭掾師匠の弟子になります。芸歴は二十六年になります。
寛也 女流義太夫の三味線弾きの鶴澤寛也と申します。芸歴は三十年弱です。神楽坂に稽古場を構えて五年目になります。
鶴賀 はじめにこの道に入ったきっかけ、いきさつをお聞かせください。
貞寿 私は子供の頃から「日本昔ばなし」が大好きで、市原悦子さんのように民話の朗読をやってみたいなと思い、勉強していました。その内に、たとえば栃木の民話を読むと、那須与一という人が出てきて、いつの間にか「源平盛衰記」という講談になる。そこで、講談に興味を持ち、足繁く釈場に通って聞くうちに、いつの間にかやる側になっていた、という感じです。
鶴賀 なるほど、講談というと、新劇の役者さんからなった人も多いですね。
貞寿 女流講談師の中には、もともと女優をされていた方も多いですね。私の師匠も講談師になる前は役者として活躍されていたそうです。
伊勢吉 私は新内節江戸浄瑠璃とは全く縁もゆかりもない南西諸島の一つ喜界島というところの出身です。十八歳の時に大学入学ということで上京いたしましたが、諸事情ありまして、中退しました。その頃師匠の弟子の伊勢一郎という三味線弾きと出会い、軽い気持ちで三味線を始めました。その内その面白さにとりつかれ、正式に師匠の通いの内弟子としてこの世界に入りました。
寛也 私は大学に入ってからお芝居や映画を観ているうちに歌舞伎にいきあたって、歌舞伎座の三階においてあった義太夫協会のチラシを見たのがきっかけです。実は義太夫はあまり好きじゃなかったのですが、「義太夫を勉強すると歌舞伎がもっとおもしろくなる」という殺し文句が書いてあって、そのためなら勉強してみようとはじめたのです。
雷に打たれたような体験
貴比 私は踊りとは関係のない普通の家に生まれたのですが、母が「女の子が生まれたら踊りを習わせたい」と考えていたようです。でも私は高校二年までお稽古がいやで逃げまわっていました。どのように稽古をサボるかに命をかけていたのです。ある時にすばらしい舞台を観て、まるで雷に打たれたように感じ、その時から私も舞踊家になろうと決心したのです。
伊勢吉 私はなに気にはじめた新内でしたが、師匠の浄瑠璃にふれて、貴比さんの言葉ではないですが、私も本当に雷に打たれました。浄瑠璃というのは、物語を三味線の伴奏に乗せながら展開していくのですが、お芝居を観ているようで、一人で何役もこなして、登場人物になりきって喜んだり悲しんだりできるのです。そんな師匠の浄瑠璃を聞いて、私もこの世界に入ろうと決意したのです。それに私は、会社勤めとか絶対にあってないですから。芸の世界でドロドロになって苦労するのが性にあっていますから。お金持ちにならなくてもいいのです。それより一つの道を精進したいので、苦しみはありません。困ることは、生活費が足りなくて時々師匠にお金を借りることくらいです(笑)。
鶴賀 それで私が困っているのです(笑)。寛也さんは、三味線一本でこの道に入って、お弟子さんをとったり、演奏会を開いたり大変ではありませんか?
寛也 私の場合、芸の世界に入った一番のきっかけが、最初に入門した鶴澤寛八師匠という大阪のお師匠さんの舞台で、あまりの格好良さに「このお師匠さんに三味線を教えてもらいたい」と。大阪のお師匠さんが東京にいらした時、私は素人で稽古するつもりで、ちょっと教えてくれないかなあと思ってお宿を訪ねました。ところがお師匠さんは、どうも私をプロ入り志望とまちがえたらしくて、「あんた、こんなんやったらあかんで。女の人は結婚するのが一番や」と言われているうちにいろいろあってこちらも本気になってしまい、「じゃあ、大阪行きますので、よろしくお願いします」ってずるずると入ったのです。
長岡 人生の決断時ってそんな感じで訪れるものなのですか。
寛也 たいしたこともなく、なんとなくずるずるです。
鶴賀 そうだよ。大上段なんかに大げさに考えていないよ。すうーっと水の中へ入っていくようなものだよ。
人間のもつ業や葛藤がテーマ
寛也 私は今では義太夫がすごく好きだし、世の中で一番おもしろいものだと思っています。
長岡 すいませんが、読者の中には義太夫がどんなものだかイメージできない方もいるので、少し魅力を説明してくれませんか。
寛也 義太夫は基本的に太夫(語る人)一人と三味線弾きの二人で物語をつくりあげていくのです。物語は壮大なものが多く、大きなうねりをともなって起承転結していく。この盛り上がりは、何かに似ているなと思ったら、子どもの時に読んだ岩波の子ども向けの「オデッセイア」でした。要するにいろいろなエピソードがあって、それが収束していく時の壮大さがいい。
長岡 講談にもそういう出しものがありますが、義太夫と講談の違いは?
貞寿 似てるものもあると思いますが、どちらかというと講談は庶民向けのものが多いです。時代でいうと、太平記や源平盛衰記くらい以降のものが多く、それ以前のものはあまり高座にかかりませんね。
寛也 義太夫の物語のどこが好きかというと、それぞれの立場で必死に生きているのですが、結局、運命のようなものに皆のみ込まれてしまう、その無常感というのがたまらなくいいのです。
鶴賀 義太夫がほとんどの浄瑠璃の元だから、新内もそうだけど。やはり義太夫が一番壮大だし、聞き甲斐もあるのかな。
長岡 「かぐらむら」の読者のために新内の世界の成り立ちをくわしく教えていただけますか。
鶴賀 新内節は、約三百年前に江戸で誕生した浄瑠璃です。昔の映画等で流しのイメージがありますが、語り物ですから非常に長く一時間から二時間、あるいは三時間の演目があります。最近では物語の一部を三十分位で演奏するのが主流ですね。江戸浄瑠璃の中でも粋で艶っぽく、そして扇情的です。様々な物語がありますが、心中物が有名ですかね。いずれの物語も情を表現しています。男女・親子・友情・主従の情。様々な人間模様を語り手が語り、うたい上げる一人オペラと云った方がわかりやすいですね。
長岡 義太夫、新内、講談、それぞれに多くの種類の物語があるかと思いますが、共通の主題となっているものは、どんなものが多いのですか?
鶴賀 主題は親子関係をはじめ、夫婦、兄弟、男女、主従、師弟などの関係の中での人間の葛藤を描いているものがほとんど。近松門左衛門の心中ものも、人間のもつ業や、男女の葛藤、きびをうちだしていると思う。
芸の成り立ちを遡れば
長岡 講談の成り立ちは、どこからはじまっているのですか。
貞寿 講談の成り立ちは、太平記読みがルーツとされています。戦国時代、武士は戦に勝つために様々な軍記を学んでいました。太平の御代となり、職に困った浪人たちが老若男女を集めて「太平記」を面白おかしく読んで聞かせたというのが始まりです。そこから、話の種類が広がり、「鼠小僧」のような白波もの、「清水次郎長」や「国定忠治」のような侠客もの、「伊達騒動」などのお家騒動や、怪談、力士伝、水戸黄門やいれずみ奉行(遠山の金さん)など、皆さんが御存じのような話も沢山生まれました。また、昔は、かわら版(昔の新聞)はありましたが文字が読める人は多くなかった。そこで、かわら版を読むニュースキャスターみたいな役割もあったようです。寄席に行くと講談師の話で世の中の世情がわかる。街中で起きた事件がどんどん語られ、その新作が語り継がれて古典になっていったんです。
鶴賀 はじめは武士で、途中から芸になったのですね。武士は芸と思わずやっていたのですね。ぼくも講談は大好きです。話の数はものすごく多い。
貞寿 たとえば、太閤秀吉が生まれてから死ぬまでの話「太閤記」は三百六十席あります。一年間毎日一席やっても、同じものは一回しか話せない。
鶴賀 それぞれ作者はわかっているの?
貞寿 口伝えです。速記本が残っていて、ずっと師匠から弟子へ読み伝えです。
鶴賀 つくったのは一人じゃないでしょう。
貞寿 ええ、間に沢山の人の手が入っていますから。人気の演目は数が多くなる傾向があって、たとえば「赤穂義士伝」なんかは、殿中刃傷から討入・切腹を遂げるまでの「本伝」、四十七士それぞれの「銘々伝」、さらにアナザーストーリーの「外伝」があって、全体でいくつあるのか把握できないくらいです。
歌舞伎から生まれた日本舞踊
鶴賀 日本舞踊の世界は、どんな風に発展してきたのですか?
貴比 成り立ちは、「出雲阿国」と言われています。出雲出身の巫女が京都四条河原に小屋を建て興業しました。本来巫女の踊は、神に奉げる、神の声を聴き言葉を伝え得るための踊でした。それを芸能の踊にしたのがこの出雲阿国です。女性の阿国が当時「傾き者(かぶきもの)」と呼ばれていた流行の南蛮渡来の風俗を取り入れた男性の姿となり、それにお芝居の要素を入れたお腹を抱えて笑うような楽しい舞台を創ったそうです。観客の度肝を抜き大流行したそうです。これがルーツです。それから、こんなに流行るのなら儲けようと、遊女屋が乗り出し、その財力に明かして遊女に琉球から取り寄せた三味線音楽とのきらびやかな衣装を身にまとわせた「遊女歌舞伎」でさらに拍車がかかりました。その後、美少年演ずる「若衆歌舞伎」とともに風紀の乱れからご法度となります。その後「野郎歌舞伎」となり今まで繰り返された素晴らしい要素を加味し深みを増したものへと変遷していき、現在の形となっていきました。歌舞伎の一日の長い興業は「芝居」と「舞踊」の番組で成り立ち、その「舞踊」の要素が独立して日本舞踊というジャンルができました。振付師が商家の娘や大奥のお女中達にその魅力的な役者の踊を教えたのですから、どんなに心浮きたったことでしょうね。
鶴賀 それじゃ、日本舞踊というのは歌舞伎から生まれたのですか?
貴比 歌舞伎舞踊ともいいます。
鶴賀 舞踊の元をつくったのは歌舞伎の役者さん?
貴比 歌舞伎役者や振付師と呼ばれる人たちが家元になっています。
オペラでいえば、アリアだけを聞く
貞寿 講談師って日本全国で八十人くらいしかいない。イリオモテヤマネコより少ないです。
鶴賀 新内よりかいいよ。新内は二十人ぐらいだから。八十人もいるの?というぐらい。
貞寿 えーっ、そうですか。
伊勢吉 新内は浄瑠璃方と三味線弾きあわせて二十人ぐらいです。
寛也 義太夫はプロとアマがはっきりしています。お名取制度はないですし、家元もないです。東京の人数は二十人ぐらいです。女の人はどうしても子育てや親の介護とかあって活動できないケースもあり、いずれにしてもすごく少ないです。
長岡 ちょっと基本的なことを教えてほしいのですが。夏目漱石のものを読むと、当時女義太夫は、現代の女性アイドル並みにすごい人気だったようで、当時から女義太夫と呼ぶことは、男の義太夫が主だった?
寛也 もともとは男性の演じる文楽(人形浄瑠璃)の音楽部門である義太夫節のさわりの部分を女性が演奏するようになったようです。
長岡 女義太夫は、そこだけを演じるのですか。
寛也 たとえば長い曲の中の有名なところ「今頃は半七さん」とか「三つ違いの兄さんと」とかの一部分の演奏ということですね。義太夫節は三百二十年ほどの歴史が、女流義太夫も二百五十年ほどの歴史があるそうです。今では男性と同じように長い物語を一段演奏しているそうです。
長岡 先程から大阪や関西の話が多いのですが。
寛也 義太夫節は大阪発祥の芸能ですので、登場人物も大阪弁です。
鶴賀 もともとは古浄瑠璃があったけど。竹本義太夫が出て、義太夫節となったのですか?
寛也 竹本義太夫というアーチストが当時流行っていたいろいろな古浄瑠璃のおもしろい所を取り入れて一つのジャンルをつくりました。彼の名前をとって義太夫節と名がついたのです。そこで近松門左衛門というすごい作家と結びついて文楽が発展してきました。
長岡 大阪から全国へ義太夫節の人気が飛び火して、それが今も各地で伝えられたのですね。
寛也 地方の人形浄瑠璃は、今もたくさん残っています。プロの女義太夫は、大阪、京都、東京、名古屋などでも活動しています。
鶴賀 よく人形浄瑠璃というのですから、浄瑠璃が主です。文楽は観に行くのではなく、聞きに行くものだからね。
寛也 三味線音楽の中でも、義太夫節はやることなすことオーバーで、一人芝居をやっているような感じです。他の三味線音楽はもうちょっと歌的ですね。
鶴賀 僕は義太夫か落語家になりたかった。義太夫が好きで好きでしょうがなかった。
プロとアマチュアのちがい
長岡 神楽坂にはかつて漱石が通った「わらだな寄席」もあり、女義太夫のアイドル的な人気もあって学生も労働者も通い詰めたと聞いています。一方で落語の「寝床」の世界でよく知られている大店のご主人の義太夫は、小遣いをもらっても丁稚や女中は逃げ出したくなる。どうも、義太夫を知らない人にとって、イメージがちぐはぐでわかりにくいのですが。
鶴賀 あれは素人がやる義太夫の話だから。でも今でも、よくある話だね。
寛也 義太夫は難しいので下手なのが目立ってしまうのです。聴けるようになるまでに何十年もかかったりします。だから、からかわれる格好の題材になってしまうのです。しかも、義太夫をやろうという人は、熱い人が多いので、もう真っ赤になってすごく力がこもっちゃうんです。
鶴賀 本人は「があ~っ」とやって義太夫をやっている気になっている。
寛也 でも、昔に比べると上手なお素人さんが増えています。最近は、無茶苦茶はずす人が減ってきた気がします。
鶴賀 プロでも調子をはずす人がいるからね。
一同 (どっと笑い声)
鶴賀 人口の数で一番多いのは、この中でなんといっても日本舞踊で、特に花柳は全国区ですね。
貴比 日本舞踊自体が、プロとアマの境がわかりにくいかと。名取イコールプロではないので。花柳流に関しては、名取を取る時に普通部と専門部というのに分かれていて、専門部を取得すると自分の稽古場が出せ、主催公演ができます。歌舞伎役者さんは松竹という会社で興業を打って下さいますが、日本舞踊家はそういうシステムがありませんので自分で会を主催することが多いです。そういう会が主催できるかできないかが、プロとアマの違いといえるかもしれません。日本舞踊は古典芸能の中で一番身近なお稽古事として、広い年齢層の方々に寄り添っているのかも。
鶴賀 いま全国で花柳流だけで何人ぐらいいますか? 名取さんだけで。
貴比 たくさんいらしゃいます。
鶴賀 日本舞踊協会も大きくて立派だし、(資金は)潤沢ですね。発表会も多いでしょう。
貴比 日本舞踊協会主催公演や国立劇場主催公演といった公の公演と各自が主催する発表会やリサイタル等があります。リサイタル等は古典舞踊の他にそれぞれに思い踊りにする創作など、面白い舞台が繰り広げられていますのでお気軽に是非足を運んでみてください。
鶴賀 新内も、うちの親父も、皆弟子をとってそれが生活の足しになってやってきた。伝統芸能は、まず門戸を広げ、お弟子さんを増やさないと、プロとしても次の後継者がやっていけない。だから若手を育て、新内人口を増やさないと「プロになれ」とは言えないのです。
伊勢吉 私の場合、九年くらい前に教室をやりたいと思ったのですが、家賃を払ってまでやる自信がなかったので、師匠のお稽古場を月に何回かお借りして、それを私の教室としてもよいと師匠が言ってくださったので、なんとかやっています。インターネットで募集したり、人づてで来られたりして、今は十五人くらいが稽古に来ています。
寛也 私はやっと去年から月謝にしたんです。稽古に来なくても払ってくださいと。今までは、来ないと貰わなかったのですが、稽古場の家賃はしっかりかかってしまうので、それではやっていけなくなる。
伊勢吉 私は月謝ではなく、チケット制にしています。伝統芸能の世界でチケットは品格がないと言う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はあまりこだわらないので。ですから、役者の修業をしている子は、一回ごとに二千五百円払っていく子もいますし、余裕のある年配の方はまとめてチケットを買ってくださる方もあります。ともかく気軽に習いに来てもらうのが第一歩です。うちの人間国宝の師匠に習うのはおそれ多く近寄ってこない子も、私の会には入りやすい。お陰様でこのあいだ私の名取りも六名できました。
寛也 すごいことですね。
鶴賀 伊勢吉のところは、二十代、三十代の若い人が多いから私の稽古場が明るくなったね。私の所は年寄りばかり……でもないか(笑)。
芸に対する考え方も資質である
長岡 二十代、三十代でOLなどの仕事をしている読者を想定してお聞きしたいのですが、入門してから皆さんのようにお弟子さんがとれるようになるまではすごく大変なことだと思うのです。そこで芸に打ち込めば打ち込むほど、一方で生活が苦しくなってしまう。そう考えている読者がいたとしたら、先輩としてどう助言をされるのか? 生活のことを言い出したらキリがないと思うのですが。
寛也 そのことが気にかかっているうちはプロにはなれないのかもしれません。あとになって「人間はもうちょっとお金のことも考えなくちゃいけないんだ、と思いましたが、そのことがわからなくなるほどのめり込んでいたので、この道に入ってしまったのだと思います。
鶴賀 いい話だなあ。芸の道に苦しみはつきものです。経済的なことや人間関係などの苦しみは、当たり前のもの。お金持ちになりたい人や、苦しい稽古がいやな人は、この世界に入らない方がいい。
寛也 ともかくいろいろと大変なのですが、意地で続けているわけではなくて、三味線を弾くのをやめるという選択肢がないだけという感じです。
長岡 あれもこれも選べるけど、損得で選べる所からものをいっているうちは、はじまらないですね。でも、本気でやろうと思う人はそうあってほしいですが、向こうから気楽にやってくる人に対して「あなたは本気じゃないからだめだ」とは言えない。両面をもって向かいあってやっているのですね。
鶴賀 昔からそれはあります。考え方もその人の資質です。でも趣味でやる人も大切なのです。
伊勢吉 新内の場合でいいますと、趣味でやっている人を増やさないとプロになる人もできませんから。門戸を広げるのが大前提です。弟子でもファンでも増やすことが一番です。
残念ですが誌面の都合でつづきは次号。どうぞお楽しみに!