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ARCHIVE神楽坂交響楽ー談

第一回 白銀公園・往事茫々

2019.06.06

牛込区白銀二拾八番地表札のみを残す門柱
わが祖母の里ありしといふこの地番公園となり栗の花咲く
亡き祖母も詣でしならむ高台の筑土八幡に鉦を鳴らせり

私の姉の歌である。詠んだのは一九八八(昭和六十三)年。栗の花咲く五月から六月の頃である。祖母を偲んで訪れた公園が白銀公園。姉は、この物語の主人公、渡部温の末娘幸月(さつき)の孫である。
姉は、戦前の一九四一(昭和十六)年ごろ、まだ小学校入学前にも祖母に連れられてきたことがある、と言う。古びてはいるが立派な玄関があり、いかにも格式のある家だった。庭には渡り石のある大きな池があり、鶴の置物があったような気がする、とのことである。
私も母(幸月の娘)から、幼いとき母幸月に連れられて何度か渡部邸を訪れた、と聞いたことがある。立派な屋敷で、門を入ると玄関の前に車回しがあり、庭には大きな池があり、鶴を飼っていた、という。母の記憶の中には、確かに鶴が羽ばたいている姿が、刻まれている。姉には、母の話の記憶が受け継がれているのかもしれない。
ほんとうに「牛込区白銀二拾八番地」という表札のある門柱があったのだろうか。あるいは、すでに人手に渡って久しい一九四一年の時点で屋敷らしき建物が残っていたのだろうか。疑問なしとはしないが、姉の記憶によればこうである。歌を詠むとは、単に事実を記録することではなく、心の真実を映し出すものなのであろうか。

しかし私は気になって、新宿区のみどり公園課に問い合わせ、さらに曙橋近くの新宿区東部公園事務所に出かけることにした。白銀公園は一九九二(平成四)年三月に全面改造工事を行ったと知ったからである。しかも、改造工事以前の写真があると言う。事務所の人は親切に対応してくれたが、門柱らしき写真を探し出すことはできなかった。
一九四一年当時の白銀公園はどうなっていたのか。姉と一緒に、白銀公園に程近い甘味処・花の女主人を訪ねた。一九二九(昭和四)年生まれの女主人は、生まれたときからこの地で育ったとのことで、子どものときよく遊んだ場所の記憶は鮮明のようだった。
「ワタベさんチ」は良い遊び場だった。「ワタベさんチに遊びに行こう」、とよく誘い合って遊びに行ったものだ。広い芝生があり、水はほとんどなかったが大きな池があり、倒れた大木があった。遊び方には、こと欠かなかった。夢中で遊んでいるうちにだんだん暗くなってきて、ゴハンだよ、と呼ばれて友だちが帰っていく。そうすると、うちはまだかな、と思ったもんです、と、ほとんど八十年前の思い出を語ってくれた。
この思い出も、姉の記憶とはだいぶ異なる。
時は、往ってしまった事実を、茫々たる彼方に追い遣ってしまうらしい。
そもそも、「ワタベさん」は「ワタナベさん」でなければならない。渡部温は「ワタナベ・オン」だからである。

白銀公園を遺した人、渡部温は、天保八年六月二十日(一八三七年七月二十二日)、幕臣御家人の子として江戸に生まれた。没したのは一八九八(明治三十一)年八月七日。満六十一年の生涯は、ちょうど明治維新を境に約三十年ずつ、真っ二つに分かれる。
渡部温は、洋学者として知られるが、漢学者でもあった。実業家として財をなす一方、東京府会、東京市会、牛込区会の議員を務め、地方政治家としても活躍した。牛込区会議員のときは常に議長か副議長の職にあった。
渡部温が、白銀公園の地に居を構えたのは、一八七七(明治十)年ころのことと思われる。この地は、水戸藩の御附家老中山備前守の屋敷があったところである。約三千五百坪のうち温が自宅用に使ったのは千二百坪余り、これが今日の白銀公園の場所である。その北側と西側の約二千三百坪には十数軒の家作を建て、これを貸家とした。
温は自らの屋敷に洋館を建てた。長男朔の娘で一八八九(明治二十二)年生まれの君代は、一九五七(昭和三十二)年刊行の、温が創業した会社『東京製綱株式会社七十年史』に、「その洋館は子供心にも面白いものであったと記憶する。窓のところなど特に変わっていて、今まで残っていたら、珍しい建物として何かの資料になったろうと思われ、惜しい気がする」と、回顧談を寄せている。
また君代は生前、縁者に宛てた私信のなかで、この洋館にまつわる次のような思い出を記している。「その家の座敷で温おぢい様が亡なられ、その後私が十才ぐらいの時弟が夏大磯で死去致し、(温の妻の)お貞おばあさまが急に家相が悪いと気にされだし、建直し度いと申され、父朔が一世一代の孝行をすると全部こわし、洋館はそのまゝ残し、家族全部貸家にうつり、お貞おばあさまは、小石川傳通院内に名高い家相見がある由で、図面を持って日参致し、私もよくお供致しました。」
洋館は渡部邸のシンボルともいうべき立派な建物だったようである。一九二三(大正十二)年の関東大震災のときに焼失したともいわれるが、正確なところは分からない。

温は、二十年余りこの屋敷で過ごして一八九八(明治三十一)年に亡くなった。そして長男朔が家督を継いだ。
渡部温は、金銭に執着する人物ではなかった。父親の恬淡とした鷹揚な性格は、長男の朔にも受け継がれた。関東大震災のとき、多くの店子が被災したが、金に困った人々には、ほとんどただ同然で土地を払下げた、と伝えられる。
大正から昭和にかけて、朔は、どういう事情があったのか、父から継いだ土地をつぎつぎと手放していった。一九二九(昭和四)年四月、屋敷のあった土地そのものも競売に付され、牛込の渡部邸は消滅した。朔が亡くなったのはその翌年、三〇年三月。満六十七歳だった。
東京市は、一九四〇(昭和十五)年、内務省告示により都市計画「白銀公園」を指定し、四二年四月二十七日に公園用地として、この地を買収した。
ただちに造成工事を実施して、ちょうど一年後、四三年四月二十八日に東京市立白銀公園が開園した。面積は一二六〇・六三坪、四一六七・三七㎡。新宿区が都から移管を受け、新宿区立白銀公園が開園したのは一九五〇(昭和二十五)年十月一日であった。
洋館が無くなったのはいつか。戦前の姉の記憶にある屋敷はあったのか。そもそも一九九二年の全面改造以前に姉が見たという住所を記した表札つきの門柱はあったのか。
まさに往事茫々。なにか手がかりがあれば、お教え願いたいものである。
 
『東京製鋼株式会社七十年史』に載っている渡部温の写真

WRITERこの記事の執筆者

日本女子大学名誉教授 片桐芳雄

かたぎり・よしお



日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。

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