第5回 古今亭志ん朝と「花王名人劇場」

古今亭志ん朝は昭和から平成にかけて、名人の名をほしいままにした落語家だが、神楽坂の矢来町に住んでいたところから「矢来町の師匠」とも呼ばれていた。

滑舌が滑らかで、スピーディーなテンポで噺を運ぶ江戸落語は、聴く者をなんとも気持ちよくさせ、初心者から落語通まで楽しませてくれた稀有の落語家だった。

この矢来町に毎週通っていた時期があった。1980年代だから、今から40年ほど前、関西テレビ(フジテレビ系列)の「花王名人劇場」の番組製作に関わっていて、その制作会社「東阪企画」が矢来町にあった。

「東阪企画」の社長が、澤田隆治さんで、かつては大阪・朝日放送のディレクターだった頃、「てなもんや三度笠」「スチャラカ社員」「ごろんぼ波止場」の3本の生番組を制作し、視聴率100パーセント男の異名をとった名物ディレクターだった人である。

私が小学生の時分、日曜日の夜はテレビにかじりつき、6時からの「てなもんや三度笠」6時半からは「シャボン玉ホリデー」を見るのが、なによりの楽しみだった。「てなもんや三度笠」は藤田まことと白木みのるがレギュラーで、「当たり前だのクラッカー」とスポンサーの前田製菓を持ち上げる迷文句が学校で流行ったりしたのだった。

このテレビ界の巨人から直に声がかかった。テレビ時代にふさわしい大衆演芸の名人を作り出そうじゃないですか? という誘いだった。

私は、「さよなら名人芸 桂文楽の世界」という落語家の評伝を書きましたが、テレビの世界にはまったく縁がなく、演芸番組のプロデューサーなど、とても勤まりませんと、一旦は固辞したのだが、「文章が書けて、演者と交渉できる能力さえあれば、プロデューサーは勤まります!」と押しきられてしまった。

この「花王名人劇場」では、「漫才新幹線」「円鏡vsツービート」「談志が惚れた明治240歳」などのプロデューサーを勤めた。日曜夜9時から1時間のゴールデンタイムに、漫才のツービートがはじめて登場し、「漫才新幹線」が視聴率をとったところから、漫才ブームが起こったのだった。 「漫才新幹線」では、関西からやすし・きよし、東京からセント・ルイス、関西から東京へ進出してきたB&Bの3組が出演したところからタイトルを考え、舞台で「もみじまんじゅう」を連呼したB&Bが一躍人気者になった。

ただし、古今亭志ん朝師匠は、テレビ時代の名人ということに異論があると言い、なかなか出演してくださらなかった。それが大阪の桂枝雀師匠とならということでようやく実現することになった。「枝雀vs志ん朝」で、枝雀は「鷺とり」志ん朝は「火焔太鼓」という共に十八番の演目。

国立の演芸場で収録したものを1時間に収めたのだが、この番組を担当したディレクターが、どちらも面白すぎて、仕方なく「火焔太鼓」の一部をカットせざるを得ない、と言い出した。私は猛反対したのだが、澤田総合プロデューサーの判断で、一部カットの「火焔太鼓」がオンエアされてしまった。翌日、志ん朝師匠のマネージャーから烈火のごとくお叱りをいただいてしまった。

完璧主義の芸を貫いてきた「矢来町の師匠」に対し、今でもこの事を申し訳なく思っている。

やまもと・ますひろ
一九四八年東京生まれ浅草育ち。早稲田大学第二文学部演劇科卒業。卒論「桂文楽の世界」がそのまま出版され、評論家としてデビュー。一九八二年「東京・味のグランプリ」で料理評論のジャンルを切り拓く。主な著作に「至福のすし すきやばし次郎の職人芸術」「イチロー勝利への十ヶ条」「立川談志を聴け」最新刊は「東京とんかつ会議」(共著)。