第1回 「蕎楽亭」と「東白庵かりべ」

わたしは東京生まれ下町育ちで、20代になるまで、神楽坂に足を運んだことがなかった。永六輔さんの実家「最尊寺」のある台東区永住町で育った私は、上野・浅草がテリトリーの下町っ子で、最寄りの駅は地下鉄「稲荷町」。その地下鉄に乗れば「銀座」、省線に乗れば「水道橋」がボーダーラインで、「銀座」はディズニーの映画、「水道橋」は後楽園球場の巨人戦が目的で、その先にはそもそも用事がなかったのである。

その後、家族が父親の仕事の事情で札幌に転居した。わたしは高校3年と予備校1年を札幌で過ごし、大学は早稲田の第2文学部に入り、東京下町育ちであるのに、練馬区上石神井に下宿することになった。そこで、東京は広いと実感することになったのだった。それでも、上石神井から高田馬場で乗り換え、東西線で早稲田に通っても、次の駅「神楽坂」にはご縁がなかった。

そんな「井の中の蛙」に終止符を打ったのが、東京を食べ歩いて、「すし、そば、てんぷら、うなぎ、とんかつ、ラーメン」のガイドブックを出そうと考えたことだった。「すし、そば、てんぷら、うなぎ、とんかつ」は東京の郷土料理と言ってよく、それに「ラーメン」を加えて、自分が東京人であることを舌と胃袋で確かめようと思った。1970年代後半のことである。

初めて、神楽坂の街、横丁、露地を歩いていると、仕舞屋風の小粋な寿司屋、てんぷら屋が軒を並べていた。毘沙門さま近くの洋食屋「田原屋」で食べたカツレツ、横丁のてんぷら屋で80歳くらいになろうかという老職人が揚げてくれたてんぷらの味は、今となってはとても懐かしい。表通りより横丁を入った露地に趣きがあり、露地に風格が感じられるほどだった。

近年の様変わりは激しいが、それでもわたしはお気に入りの店を見つけては、神楽坂へ通い続けている。

一軒はそばの「蕎楽亭」で、そば屋でありながら、品書きにある「ひやむぎ」は東京随一ではなかろうか。そばは昔「そば切り」と呼んだ。そば粉をお湯で溶き、掻き混ぜたものは「そばがき」、細く長く切ったものは「そば切り」。それに対し、うどんは小麦から作るところから「むぎ切り」といい、これを冷たくして食べたところから「ひやむぎ」となった。つゆにつけていただくと、噛んでいるうちに小麦の香りが立ち、味わいが喉を伝わってゆく。夏になると、必ず出かけたくなる一軒である。

もう一軒は、同じ毘沙門さま近くにあり「蕎楽亭」の前をさらに少し歩を進めた露地の一角に店はある。その名を「東白庵かりべ」。柏のそばの名店「竹やぶ」で修業し、六本木ヒルズの「竹やぶ」の店を任されたのち、この地で独立した。そばもそばがきも「竹やぶ」流で、まず初めに必ずいただく「そばがき」は空気をいっぱい含んでいて、まるで「そばのムース」と呼びたいほど。新そばの季節には欠かせない逸品である。

「かりべ」ではそば味噌はじめ「そば前」が揃っている。なかでも、「にしん」は逸品、京都の「にしんそば」のにしんは甘いだけでとても酒のつまみにはならないが、この店の「にしん」は昆布でふっくらと炊けていて申し分ない。酒は「天狗舞」のぬる燗がいい。

その後、せいろを手繰って、最後は「てんぷらそば」で締めくくる。そば前のつまみも酒も揃っていて、いまの「神楽坂」を感じるにふさわしいそば屋である。

やまもと・ますひろ
一九四八年東京生まれ浅草育ち。早稲田大学第二文学部演劇科卒業。卒論「桂文楽の世界」がそのまま出版され、評論家としてデビュー。一九八二年「東京・味のグランプリ」で料理評論のジャンルを切り拓く。主な著作に「至福のすし すきやばし次郎の職人芸術」「イチロー勝利への十ヶ条」「立川談志を聴け」最新刊は「東京とんかつ会議」(共著)。