第三回 16名で立ち上がった青年会が全ての原点

約40年前には「希望の持てない商店街」と診断をされた神楽坂商店街。中小企業診断士の先生の予測は、統計学的に見て正しかったのだろう。戦後焼け野原からの復興を成し遂げた世代は老い、後を継ぐべき世代は急速に発展した近郊へ移り始め、都心はドーナツ化現象が顕著になりはじめた頃だった。しかし40年後、その診断結果はものの見事にはずれたのである。神楽坂は全国から知れ渡るほどの人気のまちへと発展した。統計的に診断は正しくても、人間の集団が持っている可能性までも予測はできなかった。

「さびれた商店街には、嫁も来やしない。どうせ俺たち落ちこぼれなんだから、なにかやろうよ!」当時私は、そんな愚痴ともつかない思いを口にしていた。阿波踊りを神楽坂の夏祭りに取りいれた3、4年後だったと思う。私は、この機に青年会をつくろうと山下修さんに相談した。すると、会には次々と賛同者が現われて、あっという間に16名もの若い世代が集まった。

まちは新しいことに取り組みだした。たとえばワゴンを出して安売りの「ビックリ市」をやってみたり、知り合いをたどって新潟まで金魚すくい用の金魚を車でもらいに行ったり、とにかく若かったので行動力があったのだ。

記憶をたどってその当時の青年会のメンバー16名を思い浮かべてみる。姓名、屋号、業種などが入り混じっているが、そこはご容赦願いたい。山下修(漆器店)、渋谷(近江乾物店)、綿田(タカミ洋装店)、相田(五十鈴和菓子)、田口(牛乳店)、島田(テーラー)、福井(毘沙門せんべい)、石井(助六)、天利豊(菱屋)、上田(十奈美化粧品店)、林(巴有吾有)、増田(精肉)、斉藤一広(楽山)、富田(紀ノ善)、伊藤(靴屋)、そして坂本(ガラス屋)の16名である。当時全員が20代後半のバリバリの世代で、一番多かったのは団塊の世代である。

多少のうぬぼれもあるが、神楽坂の商店街がおもしろくなった原点は、この16名で立ち上げた青年会から始まっていると思う。この機運をみて親の世代からは「商店街に青年部をつくらないか?」との誘いをかけられたが、「冗談じゃない、おれたちは商店街の下部組織にはならない」と突っぱねて“部”ではなく“青年会”とした。このマンパワーが、後の「飯田濠を守る会」につながっていく。青年会のメンバーのうち数人で「水曜会」という会を立ち上げ、「菱屋」3階に集まった。酒を飲んだり、まちの将来を議論することが多かったが、その中から『飯田濠の再開発に反対しよう!』ということになった。若くてあまり周囲のことも考えずに突っ走るので摩擦も多かった。私たちが飯田濠反対シールをつくりあちこちに貼ったら、過激すぎるとのことで、商店街の上の世代の役員に呼ばれて謝罪させられたこともあったぐらいだ。しかしこの頃の活動が、少しずつ経験を積みながら「神楽坂まちづくりの会」「街並み環境整備事業」「まちづくり憲章」「まちづくり協定」などへとつながっていった。“もの言う神楽坂市民の核”となって成長していったのではないだろうか。

一方人口のドーナツ化現象で郊外へ流れ出した傾向は十数年すると、やはり交通の便の良い都心が見直され出して、再都心化への回帰がはじまった。地下鉄の路線が増え、神楽坂周辺は駅が増え、より一層便利なエリアとなった。それらの社会環境の変化が追い風となって、16人で活動したことが広がりを持ち始めたのだ。統計だけでは生きているまちの体温まではわからない。人間こそが、マンパワーこそが、生き物としてのまちを育てていくのだと思った。

次回は、いよいよ「飯田濠を守る会」の活動にふれたいと思う。

さかもと・じろう

1945(昭和20)年、中国上海生まれ。東京理科大学建築学部卒。坂本商店四代目。神楽坂まちづくりの会々長