第四回 「飯田濠を守る会」はたった四人ではじまった

先の見通しは全くなく、その後の展開を想像できたものは、一人もいなかった。どうやって反対運動をするのかも、四人ともわからないような状態だった。そもそも反対した理由がなんだったか。一つではなかったと思う。当時、昭和40年代後半は、大規模店舗法が各地の商店街で問題になっていた。家庭排水などが流れ込み汚濁した飯田濠を埋め立てて再開発をするという案を聞いた時、私たちは、通産省まで大規模店舗法について聞きに行ったことがある。しかしその時は、門前払いをされてしまった。つまり最初には大規模店舗が進出することに対する反対がまずあったのだと思う。

たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。

ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。図ったわけではなく、偶然にも人生上の一大事が重なってしまったのだ。しかも反対派の主要メンバーは、皆私の結婚式への参列者でもあったのだ。式場は、昔の古い建物、箪笥区民会館であった。式が終わるや、当然のことのように反対派集会の会場に連行され、そのまま仮設の舞台に立たされた。その舞台で結婚したことを報告すると、参加者からは、大きな祝福を受けた。ところが「これから北海道へ新婚旅行に行きます」と告げると、「行くな! 行くな!」の大合唱が起き、「共にたたかえ!」との声も飛んだ。私は逃れるように会場を後にして、新婚旅行へ出発した。

そして一週間の北海道旅行から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。しかし、その後の結果を見ればおのずとわかってくると思う。それにしても、自覚がないものの、後の都市問題の一つの道標とでもいうべき闘争の中心にいたことはまぎれもない事実であった。神楽坂のまちづくりの活動はいまも続いているが、この時の出来事が、まちにとっても、私にとっても、大きな区切りとなった気がする。

都市は拡散と収束を繰返している。戦後の東京もすごい勢いで拡散した。その結果神楽坂は落ち込み、私の同級生たちは皆郊外へ散って行った。いわゆるドーナツ化現象だ。時は経って、戦後三十年もすると、今度は急速な収束が起きた。神楽坂に地下鉄の路線が四本も走り、バブルの到来とともに大小のマンションが建ち、小型ながらビルの林立も加速、いわゆる再都心化の流れが起きた。その象徴的な開発が飯田濠の再開発だったのだろう。

まちづくりに終わりはない。私には今でも身内に昔に変わらぬ熱い澱(おり)のようなものがある。まちは立ち止まってはいけない、淀めば腐っていく。第二波のまちづくり運動を少し急がねばならない。そのテーマが『ギャラリーのあるまち』である。読者の皆さんもいま少し、語り部にお付き合い願いたい。

さかもと・じろう

1945(昭和20)年、中国上海生まれ。東京理科大学建築学部卒。坂本商店四代目。神楽坂まちづくりの会々長