第五回 “神の手”の采配があったのか?

徹底抗戦の構えだった「飯田濠を守る会」は、その後どうなったのか? 私自身は、新婚旅行から戻ったら、浦島太郎状態になってしまった。やがてラムラの着工がはじまり、妥協の産物である大きなビルが2棟完成した。当時私は、大地主升本さんが発行した本を見て、驚愕したことがある。その本は、大判の箱入りで、中には揚場町を核とする再開発の壮大な未来図が描かれていた。地政学的にも、交通の要衝としても、都内で一、二を争うほどの場所に位置する飯田橋を大きく発展させる計画だったのだ。その本を見た時、正直いって私はおそろしくなった。自分たちの反対運動が、その計画を台無しにしたような気がしたからだ。

そうした状況の中で「坂と堀の会」がつくられた。同じ地域の中で対立し続けていたら、まちづくりは前へ進められないと考えたからだ。当時の通り商店会会長・上田邦彦さんが世話役となり、融和を目的とした会を立ち上げたのだ。月に1回講師を呼んで講座を開き、情報交換をして懇親を深めた。ラムラ、セントラル開発、通り商店会、熊谷組などで運営されたが、この会は約2年間で消滅してしまった。

いまも飯田濠をはじめ外濠は、江戸時代からの土地の遺産として、新しい水辺利用の計画が、大学や地域の団体によって提案され続けている。前号でも述べたように、戦後東京は拡散をしはじめ、ドーナツ化現象で都心の神楽坂は衰退していった。ところが「やはり都心の方が住みやすい」となると、今度は再都心化の動きが活発化した。その大きな潮目に、飯田濠の再開発問題が起きたのである。こうした東京の大きな底流に乗っかって神楽坂は浮上した。最近つくづくと思うことは、こうした時代の底流を読みとることの大切さだ。目先の利益や、自分たちの情緒的な思いだけで突き進むのではなく、時代の底流を読み取ることがいかに大切かと思う。

東京が拡散化し始めた時には、郊外に夢のようなショピングモールや商店街が続々と誕生し、代わりに都心の商店街の多くはさびれていった。しかし再都心化が起きはじまると、郊外の夢のような商店街からは人が遠のき、いつの間にかシャッター商店街になってしまった。各時代の趨勢の中でヒューマンパワーの果たせる役割には、当然限界がある。いくら頑張っても、時代の流れに逆らってはだめである。では運よく時代の求める方向に乗って浮上すれば、人の力は必要ないか? といえば、そんなことはない。再都心化の風が吹いた頃、神楽坂のまちづくりには、他の地域がうらやむほどの人材が続々と集まりだした。そしてまちづくりの事業やボランティア活動に参加をし始めた。

最初のきっかけは、新宿区主導による「神楽坂まちづくりの会」の発足だった。区は会の事務局を引き受け、区の持つ人材とノウハウを注いでくれた。その後、まちづくり憲章の制定、まち並環境整備事業導入、神楽坂まちづくり協定の作成等など、神楽坂のまちづくりは多くの外部の人をも巻き込んで成果を出していった。

こうした動きは環境整備のハード面だけでなく、文化ソフト面でも続々と人材が集結した。神楽坂のタウン誌「ここは牛込、神楽坂」の発刊。市民の手づくり文化祭「まちに飛びだした美術館」のスタート。商店街からは「伝統芸能を楽しむ会」「和・日本と遊ぼ」など、新企画が続出して、神楽坂は年々華やぎだした。花柳界もまちのこうした動きに呼応して、理解と協力を惜しまなかった。いま振りかえると、まるで神楽坂のために“神の手”の采配があったかのような気がするのだ。だが、しかしである。これから先どうなるのか? それは誰にもわからない。(次回に続く)

さかもと・じろう

1945(昭和20)年、中国上海生まれ。東京理科大学建築学部卒。坂本商店四代目。神楽坂まちづくりの会々長