第二回 希望が持てないと診断された商店街

上海から帰国したわが家族は、やっとの思いで神楽坂の地に着いたものの、まちは焼け野原だった。かろうじて戦前の外観を残していたのは、三菱銀行と津久戸小学校だけだった。まだ一歳にも満たない私は、母の実家だった神田の製本屋に母子ともに身を寄せた。父一人が、神楽坂に留まった。父は戦前と同じ場所に小屋を建て、坂本ガラス店の再建を図った。戦後の物資のない時代は、建築資材でもガラスでも、仕入れれば飛ぶように売れたらしい。なんとか住宅事情も整い商売も順調になった頃、私と母は神楽坂に戻された。私は五歳近くなっていて、地元の赤城幼稚園、津久戸小学校へと進学した。小学校では、のちに神楽坂のまちづくりを共にする人たちが幾人もいた。

ここで戦後の神楽坂ついて見聞きしたことを語っておきたい。神楽坂のまちには、ほかの繁華街のような闇市は立たなかった。その理由の一つは、今のラムラ都橋のあたりに牛込警察署があって、飯田橋の駅前をがっちりとガードしていたからだ。闇米をかついで千葉方面からやってくるおばさんたちが警官に捕まっている姿を何度か目にしたことがあった。私も小学校の高学年の時に六歳年下の妹の手を引いて靖国神社の御霊祭りを見に行こうとしたら、浮浪児とまちがえられたのか、警官に尋問されてしまった。当時はみんなきたない格好をしていたから。

路地の成り立ちについても語っておこうと思う。私がまちのガイドをしていると、よく参加者からこんな質問をされる。「迷路のようになっているこの路地を設計したのは、誰ですか?」と。これらの路地は、誰かが設計したのではなく、江戸時代からのお屋敷を細かく分割した時にできた境界線が発展してできた。神楽坂通りに面して基本間口が二間半で、豆腐を切るように分割してできたのである。路地と路地をつなぐ接道はでたらめだから、もとの場所に戻るにはかなり迂回をしないとできなかったりする。迷路のようだといわれる所以である。大きな地割は、江戸切絵図と今もぴったりと重なっているからすごいと思う。神楽坂3丁目のわが家も間口は二間半であり、借地であった。戦前はほとんどの商家が借地であった。それを占領軍のGHQが税金を納められない地主から物納として取り上げ、その土地を安く一般向けに払い下げたのだ。この時小さいながらも初めてわが家は地主となった。占領軍も時にはいいことをしてくれたものだと思う。

私は地元の小中学校を出て、蔵前工業、東京理科大学へと進んだ。就職は、いずれ家業を継ぐことを考えると腰掛け的な企業となってしまった。高度成長期には、店舗の内装やインテリアを手掛ける〝店装〟という業種に人気があって、私は3年間ほど修行を積んだ。そんな寄り道のあとで、私は坂本ガラス店の4代目となってまちに戻ってきた。27歳の時であった。昭和47年その頃の神楽坂商店街はどうもあまりぱっとしなかった。活気がなかった。私が思うに、自分たちの親の世代は、戦地から帰ってまちを焼野原から復興するのに気力・体力のほとんどを使い果たしてしまったのではないだろうか。そして私と同世代の跡取りたちの多くは、今度は急速に発展しだした郊外へ引っ越すものが多く、商店街全体が弱体化していたと思う。当時中小企業診断士として名高い黒須さんが、神楽坂の商店街を診断して言った言葉が今も忘れられない。「将来、神楽坂商店街の発展はあまり希望が持てない。むしろ可能性としては、牛込北町のほうが有望だ」と。約40年前の話である。

さかもと・じろう

1945(昭和20)年、中国上海生まれ。東京理科大学建築学部卒。坂本商店四代目。神楽坂まちづくりの会々長