第一回 ランプ屋誕生から、上海の引揚船まで

明治十九年神楽坂三丁目二番地に間口二間二尺、奥行き十間の坂本灯火店という洒落たランプ屋(後の写真から私が想像したのだが)が誕生した。これが我が家が神楽坂に根を下ろしたルーツである。以来、明治・大正・昭和・平成と時代も移り、元号も四代を数えた。この坂本灯火店の主人も四代目となって続いてきたが、平成二十四年六月、特に何の感慨もなく、バタバタとしているうちに、百数十年の幕を下ろした。

閉めた四代目は、悔いも反省もなく、相も変わらず神楽坂の町興しに日々狂奔している。そこで恥をしのんで、遥か忘却の彼方に消え始めている薄暗い景色を引き寄せながら坂本商店と神楽坂の思い出を語ろうと思う……。

初代は助三朗(漢字名は定かでないが)といった。親父の話によれば、助三朗は静岡の農家の出身で、甲武鉄道が開通し、毘沙門様で賑わい始めた通りの片隅に店を構えた。文明開化後、ランプは行燈に代る大切な暮らしの道具だったので、初代には先見の明があったのかもしれない。初代助三朗は、その後灯火店で成功して、神楽坂に料亭を二軒持つことになる。場所は、本多横丁の「常盤家」のあたりに一軒と、白銀公園の近くに一軒あったと親父から聞いている。大正時代や戦前の料亭のことを調べれば、初代が経営した店の名前ぐらいは分かると思うが、私は自分の家のこととなると、興味がわかず結局調べずに今に至っている。

二代目は角四朗といった。助三朗には八人の子があり、角四朗は長男で、父の兄であった。体があまり丈夫でなかったらしい。年をとってから応召があり、その後シベリアに抑留され、彼の地で亡くなったらしい。そこで角四朗の弟である私の父、八朗が三代目を継いだ。戦後間もない頃の話である。父の兄弟で、年は離れているが兄の角四朗と父だけが男であり、あと六人は全員女だったという。ちなみに、男には皆「ほがらか」の「朗」の字がついている。

三代目の父のことになると、記憶はより具体的になる。父は大正三年生まれ。初代のおかげか、父は慶応義塾大学に入学し、戦前の栄えた銀座で楽しい青春時代を謳歌した。卒業後に商社マンとなったが、戦時色が濃くなった頃に軍属として中国大陸へ渡り、上海に長く駐在した。父の話で一番多いものが、この上海での思い出話である。旧フランス租界地区に住み、欧風の美しい上海の街並みが、忘れられなかったのだろう。また、体格がよく当時は多少太っていたこともあってか、〝大人〟として中国人によくもてなされたともいう。やがて敗戦の年を迎えるが、その年の一月に私が生まれる。二朗という名前は、幼くしてなくなった兄がいたことを忘れないためにつけたのだという。

敗戦国の民である私たち家族三人は、戦後の大混乱の中、上海から船に乗って帰国した。この時私は生後七カ月の乳飲み子であった。以下は、父に聞いた時のエピソードである。

「やっとの思いで乗船できたものの、引揚者であふれる船倉に押し込められそうになった。見ると船底は、暗くてむっと暑い空気が充満した劣悪な場所だった。その時、お前の母さんが『こんなところでは、赤ちゃんが死んでしまう!』と支援者に訴えた。その時の母さんの剣幕があまりにすごいのでおれもびっくりしたよ」という。

母の抗議の甲斐あって、私たちは甲板近くのほどよい客室に移されたのである。もし、あのまま暗い船倉で航海をしていたら、私はどうなっていたことだろう。(つづく)

さかもと・じろう

1945(昭和20)年、中国上海生まれ。東京理科大学建築学部卒。坂本商店四代目。神楽坂まちづくりの会々長