第二回 韋駄天のおゆみ

東京オリンピックの年は、五輪マークの入った扇子をつくって三波春夫さんの東京音頭を踊りました。世界中からお客様がいらっしゃると期待して、お姐さん方は小紋の引き着までこしらえたのですが、こちらはあてがはずれてしまいました。とにかく忙しい時代で、午後六時から夜中の十二時ぐらいまで、毎日四、五軒の料亭をまわって、いろんなお座敷に入れてもらいました。私は、忙しい時は料亭から次の料亭までよく走りました。路地から路地は勝手知った子どもの頃からの道ですから。着物姿で走り抜けました。中学時代は陸上の選手でしたから。挙句に〝韋駄天のおゆみ〟なんて呼ばれたりしました。私がよく走った理由は、一分でも長くお座敷をおつとめしたかったからなのです。

この時代の一番の思い出は、明治座での公演「神楽坂をどり」。東京オリンピックの前年に第一回が開催され、最初の一、二回は「牛込さつき会」と呼ばれていました。この頃の公演は、出演者の数が多いので二日間興行をする豪華な舞台でした。その明治座での舞台稽古は、だいたい夜の9時頃から始まって夜通し朝まで続くのです。というのは、商業演劇の前の舞台が終了し大道具を片付けてからでないと、舞台稽古に取りかかれないからです。芸者もお師匠さんも全員が、朝までの猛特訓です。若くて体力もありましたから私たち若手は、朝まで徹夜のお稽古がめずらしく、楽しく、わくわくして過ごしたのを覚えています。

芸達者な先輩がずらりといる中で、私たち十代の芸者は、舞台では端役しかもらえないのですが、それでも楽しかったのです。私と同世代の仲間は五人組と呼ばれていて、双子の梅ちゃん(梅千代)、松ちゃん(松千代)、孝美ちゃん、りん弥ちゃん、そして私、由みゑの五人です。その五人がはじめて清元の「卯の花」を任された時には、五人で大喜び。本当にうれしかったです。

半世紀にもわたっていろいろな出し物をやりましたが、変わったものは常磐津の「空の初旅」。これは傘屋さんが風に飛ばされて各地を転々と旅をして様々な体験をするという物語。私は天狗の役で、一本刃の高下駄をはいて踊りました。友だちのぼたんちゃんが、上調子を弾きながら転びはしないかと、はらはらして三味線を弾いていたと、今でも語り草です。

忘れられないのが、「人形づくし」という演目。私はネズミの役でお雛様をかじったりいたずらをした挙句、あとで五月人形の金太郎や武者達にこらしめられて逃げまわるという筋書きです。ネズミ役の私は、なぎなたを鉄棒代わりにぶら下がったり、逆立ちしたり、でんぐり返ったり、舞台を動き回ります。その時の私の舞台衣装は、上から下までネズミ色のタイツのみ、あとは腰に黒い紐を一本巻いただけ。ほかの出演者と比べたら、あまりのちがいです。でも夢中になってネズミ役を演じたら、運動神経を認めてくれたのでしょうか。あとで私にゴルフのハーフセットを買ってゴルフ場にまで招待してくださったお客様がいたのです。ネズミ役を褒めてくれるなんて素敵なお客様がいらっしゃったものです。

昭和42年6月明治座での「人形づくし」。ネズミ役の私

さいとう・れいこ

昭和21(1946)年生まれ。生粋の神楽坂っ子。昭和36年にお酌でお披露目、昭和39年東京オリンピックが終わってから一本に。只今は常磐津(浄瑠璃)の語り方