第一回 水陸両用のスポーツ少女

昭和21年当時戦災から花柳界はいち早く復活していたのですが、住宅事情がまだまだ整っていなかったのでしょう。母は疎開先だった埼玉県の桶川から朝列車に乗って夜のお座敷に間に合うように神楽坂へ通っていたそうです。大変な時代だったと思います。私は、その昭和21年にお茶の水の浜田病院で生まれました。三年後に桶川から家族で若宮町に引越し、その後ずっと若宮町で育ちました。幼稚園や学校も、同仁幼稚園、津久戸小学校、牛込三中と地元の学校です。小学校に上がる前の記憶で残っているのは、母に連れられて、6歳の6月6日に踊りの稽古を始めるとよいという慣習にならって、私も6歳の時に「かんかんお髪のお人形」という踊りを習いました。

小中学校時代は、スポーツが得意でした。小学校ではずっとリレーの選手で、新宿区の連合運動会では、リレーの部でアンカーをまかされ優勝しました。中学校時代は、走り幅跳びの選手不足で急に頼まれたのですが、いきなり入賞し、次の予選では学習院女子部グランド、さらに国立競技場まで遠征しました。水泳のクロール25・50メートルでも入賞。日焼けして真っ黒な女の子でした。その頃のあだ名は、「水陸両用のれい子(本名)ちゃん」でした。後に、お酌に出るという話を聞いた神楽坂の女将さんたちは「あの真っ黒な、あの子がお披露目とはねえ」と驚いたそうです。 私がお酌でお披露目をした時、幇間のいろ平さんとお母さんと三人で挨拶にまわったのですが、料亭の数が多くてとても大変でした。その頃(昭和36年)の神楽坂は、料亭が約五十軒、芸者さんが二百四十人から二百五十人いましたから。幇間さんも三、四人、お酌さん(京都では舞妓さん)は一番多い時で十人ぐらいでした。お酌ではじめてお座敷に出た日に、お客さんからなみなみとコップにお酒をつがれてしまい、「飲め!」といわれた時、「飲めません」といって泣いて帰ったなんてこともありました。

とてもよく覚えているのは、女優の吉永小百合さんの演技のお手伝いをさせていただいたこと……。

『花は花嫁』という日本テレビの人気ドラマで、妻を亡くした花屋のご主人が児玉清さんで、神楽坂の芸者さんで縁あってその花屋さんに嫁ぐのが吉永小百合さん。舞台は神楽坂の花屋さん。ほかに淡島千景さん、細川ちか子さん、小松政夫さん、子役に皆川おさむさん、林寛子さんらが出演。私と吉永さんは、年齢差が一歳ということもあって、お座敷での立振る舞いやお酌の所作などをお教えする役を私が頼まれたのです。私もそのドラマに出演しました。撮影はスタジオで夜遅くまで続くこともありました。

ある時、撮影稽古が終わって「これから神楽坂のお座敷にいってみますか?」とお聞きすると、吉永さんが「一緒に行ってみたい」とおっしゃるので、稽古着のまま二人で神楽坂のお座敷へ行ったのです。私は「これからお披露目をする見習いさんです」と、彼女をご紹介しました。

何も知らされていないお客様はさぞ驚いたことと思います。

さいとう・れいこ

昭和21(1946)年生まれ。生粋の神楽坂っ子。昭和36年にお酌でお披露目、昭和39年東京オリンピックが終わってから一本に。只今は常磐津(浄瑠璃)の語り方