第三回 思い、馳せる

現在滞在中の群馬山中における散歩時の必需品はクマよけの鈴です。山を下りて神楽坂に来ますと、ギンレイホールのカードが必須携行品になります。映画好きかと聞かれて、はいと素直に答えるほど通い詰めているわけではなく、映画に詳しいわけでもないのですが、何故かギンレイホールに時々足を向けたくなるのです。このことは、以前仕事をしていた音楽ホールと関係があるのかもしれません。そこは、多目的型のホールでしたから、試写会場としてもよく利用されていました。場所が銀座で映画会社が近いという地の利もあったでしょうが、なにより総合芸術としての映画を音楽同様に大切にしたい、という私たちの姿勢が評価されてのことに違いない……と信じています。映写会に関するエピソードは数多くありますが、一つだけあげるとすれば70ミリ映画のことです。フィルムの幅だけでも35ミリの倍ありますが、それだけではなく、音響その他についても規格が桁外れのサイズでした。スクリーンを舞台いっぱいに張り、舞台・客席に専用スピーカーを相当数用意して上映した後、音楽映画の時など終映後のお客様の興奮がロビーに伝播して、宴会場にスターが現れたかのような賑わいぶりでした。映画会社の試写室では70ミリ映画の上映は無理ですので私たちの会場を利用しますが、以前からホールは保税上屋(*1)の指定を受けていたこともあり、多くの70ミリ映画が上映されました。なかには、公開されずに本国(主にアメリカ)に返された作品もあります。何の映画だったでしょう。東日本大震災の津波で行方不明になった友人が修業時代に東京に居り、音楽好きの彼を招待したことを急に思い出しました。震災一か月前には、岩手県大槌町の吉里吉里地区で開催された黒森神楽の廻り公演立ち合いに行って彼と会い、音楽はもちろんのこと、我々を取り巻く様々な状況について話をしました。彼のほかにも多くの友人・知人を失いましたが、彼らの無念を考えると、自分のかかえるテーマの追及を簡単に諦めるわけにはいきません。これについては、また改めて。

さて、黒森神楽を紹介します。宮古市の黒森神社を起点とする彼らは、「能」成立以前の芸能を彷彿とさせる優れた舞を披露する神楽衆です。17世紀末に活動していたという記録が残っていますし、権現舞いで使用する歴代の獅子頭には南北朝時代のものがあります。さすがに今は使用されずに専用展示室で公開しているようです。笛と太鼓と鉦で華麗に、時には変拍子で舞う彼らは、日本人=農耕民族というイメージではなく、かつて平安貴族に恐れられた蝦夷の閉伊族の貴士(*2)を思い起こさせてくれます。他にも「鵜ノ鳥神楽」や「不動神楽」の神楽衆があり、さらには、陸中の各地域には多彩な芸能が引き継がれていて、祭事以外でも時おり公演をすることで、被災地の打ち拉がれていた人々を癒す役割を果たしています。記憶に留めていただきたい事実です。

祭礼が災害や大きな事故に遭った人々を癒す効果を持つことは以前から知られていました。一様でない被害状況は個々人を苦しめますが、人は一人ではなかなか立ち直ることは出来ません。事実、訪れた大槌町の祭りの際、郷土芸能を見つめる多くの目が「スピリチャル・ケアの効用」を物語っているかのように見えました。もしも、東京都が被災地の復興支援を施策の一つとして掲げるのであれば、二〇二〇年の東京オリンピック開会式・閉会式への「浜街道の文化を世界に」を実現していただきたいものです。

*1 外国から輸入したものを保税のまま置いておくことが出来る場所 *2:筆者造語

うすざわ・ゆうじ

1948(昭和23)年岩手県大槌町生まれ。銀座・ヤマハホールを退職後、ギター演奏、作曲、イベントオーガナイザーの他、音楽評論、文筆、郷土芸能研究、仏像蘊蓄士、日本楽壇将棋連盟常任理事、ウスザワユージアム館長(北軽井沢)。