第一回  外濠から見た牛込・神楽坂のトポス

法政大学教授 陣内 秀信

「水の都市」江戸・東京への関心がおおいに高まりを見せ、長らく忘れられていた「外濠」にも幸い、注目が集まり始めている。一方、神楽坂の人気は止まるところを知らない。だが、この神楽坂の周辺地域が外濠、そして東京の水の都市と結び付けて語られることは、最近、あまりなかったように思う。数年来、外濠の研究に取り組んできた我が法政大学エコ地域デザイン研究所としては、本連載エッセイでこの点に光を当ててみたい。

先ず、東京の前身、江戸が天下の総城下町としてつくられたことを思い起こす必要がある。外濠は、その一環としてつくられた偉大な歴史遺産なのだ。防御の機能をもつと同時に、濠の内と外で身分・格式の差が生まれ、空間的・社会的なヒエラルキーを表現していた。全国各地にある城下町と同様、江戸も城のまわりに内濠、外濠をもった。城に近い内濠はどの都市にもよく残されているのに対し、外濠が東京ほど残っている所は少ないだけに、かけがいのない財産である。東京はまた、江戸以来、「水の都市」であり、全国各地と舟運で結ばれる活気に満ちた港町だった。見附の御門で閉じられ、守られた城郭都市であると同時に、川、掘割、濠という水路網で外と繋がる開かれたダイナミックな都市だったのだ。

神楽坂は、このような視点からすると、実に興味深い位置に発達したといえる。江戸湊から舟で隅田川をのぼり、柳橋から神田川を西に延々と進み、さらに外濠の一角、飯田濠に入ると、左手に牛込見附が見える。その対岸に神楽河岸があり、荷揚場として栄えたのである。多くの物資が集まるだけでなく、舟で隅田川に出て浅草に芝居見物に行く粋な楽しみが明治にもあったという。

飯田濠の先の西側には牛込濠が続くが、これら二つの濠の間には水位の差がかなりあって、滝のように水が落ちている様子が、神楽河岸を描いた江戸時代の浮世絵にも見てとれる。要するに、この河岸までしか舟は入れなかった。神楽河岸は、水都江戸でも一番奥のどん詰まりの舟運基地だったのだ。その河岸のある神楽坂の側は都市江戸の郭外にあたり、武家屋敷が多いとはいえ、毘沙門天の前の行元寺のまわりや、その奥に立地する牛込の総鎮守、赤城明神の門前には岡場所が生まれていた。江戸城のまわりの格式の高い郭内の空間を出て、見附の御門を抜け、濠を渡り、坂を登ると、寺院や神社の門前に民衆の自由な遊びの空間に出会えるというのは、いかにも日本の都市構造らしい。かつて、法政で教えた広末保氏がその著書『辺界の悪所』(平凡社、1973年)において、江戸では都市の周縁部にこそ遊廓や芝居町のような文化を発信する場が生まれたと論じたことを思い出す。明治になってこの遊興の地が華やかな花街へ発展した。

とはいえ、牛込・神楽坂が江戸の外縁部に組み込まれ発展した、という言い方は適切でなく、むしろ江戸より古い自立した地域だった、というのが東京理科大学教授で中世都市史を専門とする伊藤裕久氏の説だ。この地で最古の神社、若宮八幡神社は源頼朝により、鎌倉の鶴岡八幡宮の御霊を勧進して生まれと伝えられるし、袋町にある現在の光照寺を中心とした一帯に、中世の牛込城があったとされる。徳川幕府が江戸大社の一つとして尊重した赤城明神が牛込の今の位置に移されたのも、大田道灌の手によるという。これら3つの重要スポットを見ても、牛込・神楽坂は外濠が1636年に開削されるずっと前からの歴史をもつ独自の文化を誇る地域であることがわかる。

外濠と牛込・神楽坂の関係は興味が尽きない。



じんない・ひでのぶ 法政大学デザイン工学部建築学科教授。専門はイタリア建築・都市史。都市史学会副会長、地中海学会会長。



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