第六回 開成所有志・会訳社同人

蕃書調所として出発した開成所は、明治以後の帝国大学の前身である。『東京大学百年史』はその前史を、蕃書調所の設立から筆を起こす。

しかし開成所が果たした役割は、大学よりも幅広い。外交文書の翻訳や通訳、洋書の収集や翻訳書の検閲のほかに、外国新聞の翻刻や翻訳、その情報の幕府中枢への提供等、情報機関あるいはシンクタンクとしての役割も果たした。

文久二(一八六二)年正月、渡部温が英語句読教授出役に抜擢されたころ、蕃書調所は『官板バタビヤ新聞』を発行した。バタビヤ(現ジャカルタ)にあったオランダ総督府の機関紙を抄訳したものだが、攘夷論の高まりで、同年中に刊行は中止された。原書がオランダ語なので、温はこれには関係していない。

翌文久三年には横浜刊行の英字新聞の翻訳を始めた。『ジャパン・コマーシャル・ニュース』を『日本貿易新聞』や『日本交易新聞』等、これを引き継いだ『ジャパン・タイムズ』を『日本新聞』、そのライバル紙『ジャパン・ヘラルド』を『日本新聞外編』と名づけた。これらは「筆写新聞」と言われるように、少部数を筆写して幕府中枢の閲覧に供した。

翻訳者名に温(当時の名は一郎)が初めて出てくるのは、元治元(一八六四)年七月三〇日『日本貿易新聞』第六九号、京都で幕府側の会津・桑名・薩摩の藩兵と長州藩兵とが衝突した禁門の変(蛤御門の変)を報じた記事である。「長州方大負にて散々に相成遁去申候。会津勢は勇気十倍して猶残党を追駆け」という記事を訳しながら、幕臣の温は喝采を叫んだかもしれない。温、二七歳のころである。

八月一八日の同紙号外『別段新聞』は、英仏米蘭四か国艦隊による長州下関砲撃を図入りで詳報した。温と柳河春三の共訳である。おそらく温が下訳し春三が校閲したのであろう。柳河春三は開成所翻訳スタッフのリーダーで、和漢洋学にわたる驚くべき才能の持ち主。のちに開成所頭取になった。温はその忠実な弟分であり、「柳河とは殆んど分離すべからざる程の関係にあった」(尾佐竹猛)とされる。

柳河春三(『明治文化全集』第4巻)

温はこのほか、アメリカの南北戦争や清仏戦争の記事も翻訳した。

翻訳にたずさわった者たちは、自ら訳した筆写新聞を自分たちでも閲覧するために、会訳社と名づけるグループを結成した。会費制で、翻訳が出来上がって一か月以内の貸出は一昼夜に限る、延滞したら罰金、などの規約も作った。この中心も柳河春三である。

さらに会訳社同人は、自ら得た重要な情報を、自ら書いて綴じ合せた『新聞薈叢』(全四巻)なるものも作成した。柳河春三はその表紙に「随読随録」「衆筆集成」「会訳社常置・厳禁貸出」と大書した。慶応元(一八六五)年一一月のことである。

『新聞薈叢』の記事は、翌慶応二年六月の幕府による第二次長州戦争以後に一気に増え、全体の半分近くまで達した。幕府の命運をかけたこの長州戦争に、会訳社同人たちが、いかに強い関心を持ったかが分かる。

しかし「長賊」の抵抗はきびしかった。高杉晋作の奇兵隊のように身分制の垣根をこわし、藩士以外の庶民まで動員した長州軍は、洋式兵法にも通じ、幕府側は、「何分、長人砲術だけ熟練なる事、いずれも驚きおり申し候」と認めざるを得なかった。よく訓練された彼らの戦闘行動は、敏捷で「猿の如し」と『新聞薈叢』の記事は伝えた。

戦闘は八月の幕府軍撤退によって終わった。事実上の、幕府敗北である。柳河春三が書いたと思われる「夢の評」は、「今の世は住かひもなし、山深くおなじ心の友と隠れん」と記した。幕府の権威は失墜した。かつて禁門の変で幕府とともに長州と戦った薩摩は、坂本龍馬の仲介で、薩長同盟を密かに結んでいたのだった。

『新聞薈叢』には、いわゆるニュースだけではなく、戯文の形を借りた評論風の記事もある。「作者不詳」の「南瓜論」は、カボチャを例に、西洋の「人材登用」制度はすぐれているが日本は「旧来の流弊」にとらわれていると批判した。また「安民大都督」の改革案には、「才徳勝れる者は、仮令卑賤の身分たりとも、挙て高位の官に擢るべき事」とある。しかし、身分制度の壁をさきに突き崩したのは、「御家法」に固執する幕府ではなく、長州の側であった。

翌慶応三(一八六七)年一〇月一四日、大政は奉還され、一二月九日、王政復古の大号令が発せられた。幕府は遂に崩壊した。翌年正月、鳥羽伏見の戦いによって「官軍」の東征が始まった。

『新聞薈叢』巻四は、その直後の正月一四日に、会訳社同人たちが開成所に集まって「国家重大事件に付」き開いた会議の記録(「会議之記」)である。議題は「攻守の急務を問ふ」。幕府崩壊という現実を前に、攻守いかなる対応を取るべきか。

フランス海軍の力を借りて攻める、という強硬論もあったが、柳河らの見解は「守ってのち攻める」であり、温の場合は「大守小攻」であった。何よりも、江戸市中を戦火にさらすことを恐れたのであろう。

この会議後、会訳社同人は覚悟を決めたように『中外新聞』を創刊した。開成所の木活字を使い、二月一四日に第一号、以後週二回以上のペースで、当時では破格の一五〇〇部余が発行された。発行所は、もはや「官」の組織ではなくなった神田小川町開成所内。従来のような翻訳記事よりも、独自に集めた国内の記事が主体となった。

そこには会訳社同人の、時代に対する批判精神が反映し、『新聞薈叢』の経験を通じて培われた同人相互の認識の深まりが生かされた。『中外新聞』は、官の桎梏を脱して時の権力から相対的に自立した、日本における最初の近代的新聞という栄誉を担うこととなった。自ら「民間に行はるゝ日本新聞紙の濫觴は此中外新聞なり」(第九号)と自負した。

『中外新聞』は、四月にはその姉妹紙と言うべき『中外新聞外篇』を発刊した。『中外新聞』の好評に気を良くして、そこに掲載しきれない記事を載せたという。第一号冒頭で柳河春三は、その中心が「友人渡部一郎」であることを明らかにしている。

『中外新聞外篇』の反新政府記事で最も有名なのは、第一三号(五月)に折り込まれた柳河春三の筆による一枚刷りの記事であろう。「あまたの猿、一本の松樹にあつまりて、あるひは斧かまなどを持て枝をきるもあり、あるひは鍬すきなどにて、根をほるもあり、或は枝に縄をつけて、ひきたふさんとするもあり。その図に題す。かくてだに松は根づよき枯野かな」。倒幕派を猿に見立て、彼らが、松すなわち幕府を、群がり倒そうとすることを痛烈に皮肉ったのであった。『中外新聞外篇』には、本紙『中外新聞』には載せにくい、より反政府的な記事が載った。

中外新聞外篇第13号折込記事(『明治文化全集』第4巻)

発行人は「無尽蔵主人」すなわち渡部温その人であり、発行所は牛込門外軽子坂の中外新聞外篇会社、すなわち温の自宅であった。

同年六月、開成所は新政府に接収され、『中外新聞』と『中外新聞外篇』は発禁となった。七月、渡部温は、慶喜の後を継いだ徳川家達とともに駿府(静岡)に下ることが決まった。『新聞薈叢』全四巻は 温が保管し、渡部家に秘蔵された。温、満で三〇歳の夏である。

幕臣がいなくなった江戸に、倒幕に成功した田舎侍どもがやってきた。江戸の芸者は彼らの品のない遊び方に呆れた。

それぞれの明治時代が始まった。

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。