第四回 生い立ち、または父と子

温の生い立ちについては、温の孫で、シーボルトの弟子戸塚静海の曾孫でもある戸塚武比古氏の研究に詳しい(『英学史研究』第16号所載)。武比古氏は私の従伯父であるが、生前会う機会はなかった。しかし晩年に精力的に集めた資料は、いま私の手元にある。その資料に拠りながら温の父親や生い立ちについて述べていこう。

温は渡部重三郎と茂登の一子として、一八三七年七月二二日(天保八年六月二〇日)江戸に生まれた。幼名銈一郎、元服して一郎と名乗った。父重三郎は坂井家の生まれで、文政の頃、渡部家八代目の整三郎からその家の株を買った、という。渡部家の出自は明らかではないが、つい先年八〇歳で亡くなった温直系の曾孫壽之氏は、愛知県刈谷市の本刈谷神社の付近に渡部姓があるので、何らかの関係があるのではないか、と私に語ったことがある。江戸幕府の旗本御家人には、勝海舟の勝家のように、三河生れの家康に従った同国出身者が少なくなかったから、その可能性もなくもないが、確証はない。

渡部重三郎は長崎奉行組同心、江戸詰御台所番、下田奉行手附出役、下田奉行支配調役並、神奈川奉行支配調役並、富士見御宝蔵番、陸軍奉行並組などを歴任した。

父重三郎の名前が歴史資料に初めて登場するのは弘化四(一八四七)年四月、長崎奉行から咎人召捕の褒美を得たときで、当時長崎奉行所勤務であったことが確認できる。温九歳のときである。

江戸詰を経て重三郎が下田奉行手附出役を申付けられたのは、ペリーが来航し、日米和親条約締結によって箱館と下田が開港した安政元(一八五四)年の七月。下田開港に伴いこの年三月に下田奉行所が再々置されたのである。以後、重三郎は下田奉行所の役人として、ロシア使節プチャーチンの来航、下田駐在の米国総領事ハリスへの対応等、開国業務の最前線を担った。

073_e_shirogane_04_01

ロシア軍人が描いた下田の安政大津波の絵(戸塚武比古資料より)

他方同年一一月には安政東海地震による大津波が下田を襲った。当時、開国業務のトップとして下田に出張中の川路聖謨の日記は「火事かとみる間に、大荒浪田面へ押来り、人家の崩れ、大船帆ばしらを立てながら、飛ぶが如くに田面へドッと来たる体、おそろしとも何とも申すべき体なし」と、その恐怖を語っている。川路の日記は、プチャーチンに随行して津波を目撃したロシア軍人の描いた有名な絵が、誇張のない事実であることを示している。

重三郎一家は辛うじて難を逃れ、蓮台寺に近い高台の本郷村の旅宿に移った。大津波による甚大な被害復旧も重三郎の仕事となった。温一七歳のときである。

重三郎は安政二年一一月には下田奉行支配調役並に昇進した。奉行、支配組頭、調役に次ぐ重職である。彼の任務は、ハリス等外国人との直接交渉に当たるというよりも、彼らに必要な物資の調達や入港する外国船への対応等、実務面の責任者であった。

この父親のもとで、温は安政三年二月一九歳のとき、下田奉行支配書物助に採用された。同職三人のうちの一人である。書物助の職務の詳細は明らかではないが、さまざまな外交文書訳文の浄書や留書のほか、外交交渉の場に陪席して書記をすることなどもあったと思われる。また下田奉行所にはオランダ語や英語の辞書が備わっていたから、これらを助けに少しずつ外国語を学んだかもしれない。渡部家の言伝えによると、後年温は、食卓のナイフはメス、スプーンはレーペルと、オランダ語で呼んだという。

温は、長崎、下田と父の任地に従いながら、西洋語や西洋人に接触する機会を得ていった。この体験は、温の眼を、それほどの抵抗もなく、西洋に向けて開かせていったであろう。

安政四年正月には老中から下田奉行へ、英学伝授についての達しが出されている。下田駐在のハリスのもとで「支配向の倅どものうち両人ほど」にも英学伝授をさせたいが良いかとの下田奉行の伺を認めた内容であるが、この「両人ほど」のなかに温が入っていたとしても不思議ではない。もっともハリスによるこの英学伝授は結局実現しなかったようである(「ハリスの日記」一八五七年四月二五日の項)。

安政五(一八五八)年六月一九日、難航した日米修好通商条約はようやく締結に至った。これによって下田港は閉鎖され神奈川表(横浜)が開港された。奉行所も下田から神奈川に移され、重三郎もまた同年一二月神奈川奉行に役替となった。翌年六月、神奈川奉行所の開所に伴い一家は神奈川に転居した。温も、一一月に神奈川奉行書物御用見習となった。下田時代の書物助と同様の職務に従事したものと思われる。神奈川奉行は、奉行所を高台の戸部村に、外交事務を行う運上所を、いま県庁のある波止場近くに置いた。 翌万延元(一八六〇)年、重三郎は富士見御宝蔵番に役替となり家族とともに江戸に戻った。富士見御宝蔵番は徳川家累代の宝物を納めた宝蔵を守衛する由緒ある役職である。この時重三郎は四八歳、繁忙する開国業務の最前線から退いたのであろう。温もまたこの年三月に御用見習御差免となった。

温は、一七歳から二二歳、もっとも多感な青年時代を、開国の混乱と喧騒に渦巻く下田と横浜で過ごしたことになる。

しかしその後約二年間、温の消息は不明となる。おそらく本格的な英学修業がこの間に行われたのであろう。二年後の文久二年正月に蕃書調所英学句読教授出役に任ぜられ、さらに同年一二月に同僚五人と共に洋書調所英学教授手伝並出役に昇進した。蕃書調所、洋書調所、開成所という名称変更に象徴される洋学の比重増大、とりわけ急速に高まる英学需要に対応した教授陣強化のなかで、「学業人物共に宜しく、御用立ち候者」として抜擢されたのである。温、二五歳のときであった。

温が蕃書調所に入学したことを示す資料はないが、これらの若手教員は蕃書調所の稽古人から選ばれたから、温もまたその一人であったであろう。

慶応三(一八六七)年秋ごろ、五五歳の父重三郎は、温の出世と入れ替わるように、陸軍奉行並組の職を最後に、温に家督を譲り隠居した。

明治一一(一八七八)年秋、重三郎は渡部白鷗の名で『曲亭馬琴戯作序文集』を出版した。出版人は牛込白銀町二七番地渡部温である。重三郎は白鷗と号したが、この本は、滝沢馬琴の戯作計五六篇の序文を集めたものである。戯作の内容を垣間見ることが出来るこのような序文集は、文範の役割も果たすものとして、明治になって数多く出版された。温は、自身の筆跡と思われる序言において「此頃、家尊大人白鷗君、曲亭馬琴翁の戯作のはしがき、そこはくを書集め、つけ仮名して孫ともに賜りぬ。予こゝをみるに行文の巧なる、句調のおもしろき、手巻を置く能はす」云々と、父が孫に与えた手写本を、そのままにしておくのは惜しいので刊行した、と述べている。一人っ子温の良き家庭人ぶりが想像される。

073_e_shirogane_04_02

『曲亭馬琴戯作序文集』扉と温の序言

重三郎は一八八四(明一七)年一二月三一日、七二歳で病没した。数日後の読売新聞には温の名で会葬御礼の広告が載った。維新前後の激動を乗りこえ、重三郎は、牛込白銀町の屋敷で、幸せな余生を送ったにちがいない。母茂登が亡くなったのはその二年半後の八七年六月二〇日、八〇歳であった。この会葬御礼も読売新聞にある。

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。