第十二回 渡部温が遺したもの(完)

一八九八(明治三一)年八月七日、渡部温は死去した。満六一歳だった。

田口卯吉が主宰する『東京経済雑誌』は、「渡部温氏逝く」と題して、変転多かった渡部温の生涯を悼む記事を掲載した。田口卯吉は、温の沼津兵学校時代の教え子で、温をよく知る人物であった。共に牛込区内に住み、東京府会や東京市会の議員として、また士族授産事業の問題でも、協力し合った。

「久しく東京府会、市会、牛込区会議員として公共事業に尽せし渡部温氏は去る七日を以て長逝したり。」

氏は旧幕臣にして幼少より英蘭の学に長し、開成所沼津兵学校等に教授たり、維新後又教育の為めに尽す所少からず、其の訂正康煕字典は漢学を学ぶものゝ為めに七年の心血を灑ぎて大成せしものにして、此の如く全部の訂正を加へたるは従来未曽有と称す、後東京製綱会社、横浜船渠(ドック)会社等を起し、尚諸会社の重役に撰ばる。病革まるに及び賞勲局より特に銀盃を下賜し、公共事業に尽したるの功を賞せらる、氏享年六十二なり」

雑誌『太陽』掲載の遺影(1898年10月5日号)

渡部温は白銀町の自宅で、当初は、外界との付き合いを遮断して、中国の大字典・康熙字典の訂正に専心し、その後は、実業家として、また地方政治家として、さまざまの問題の解決に当たった。いろいろの苦労はあったであろうが、温にとって、この地の生活は、充実したものだった。父母を見送り、二男四女を育てた。旧幕臣との交流も楽しんだ。

維新前三〇年、維新後三〇年、渡部温は、激動の時代に向き合った。この間、温は多様な活動に従事した。洋学者であり、漢学者であった。実業家であり、政治家であった。教育者でもあった。

日本が西洋に向かって、一気に国を開いたこの時代が、温の多様な才能を求めた。温は、時代の要請に正面から対峙し、それに応えた。英学だけではなく漢学も、学究的活動だけではなく実際的活動も、多彩な能力が存分に発揮された。

渡部温は、時代の波に抗して自らの理想実現のために奮闘する、といったタイプの人間ではなかった。彼は、変化する時代の中で、与えられた立場を受容し、そこで求められた使命を果たそうとした。

彼の行動の規準は、狭い私的関心に閉ざされてはいなかった。出自である幕臣にふさわしく、あるいは滅び行く徳川幕府に殉ずるかのように、「公儀」の観念が、彼の行動の底にはあった。「私欲のためではなく、公儀のために」、彼はイソップ物語を翻訳し、康熙字典の訂正をおこなった。

もとより単なる自己犠牲や「滅私奉公」ではない。自らを生かすことが「公儀」のためになる。それが彼の愉楽でもあった。

神楽坂の歴史に詳しい、街歩きコンシェルジュの谷口典子さんに、一八七九(明治一二)年六月六日付の読売新聞を見せられた時には、感動した。不動産仲介業者「菊間」の広告である。そこに「牛込区白銀町廿九番地渡部邸内に、畳建具附にて、下直(低価格)なる新規貸家数軒あり、御望の方は御来談可被下候」とあった。八年後の八七年の広告には、「一円五拾銭以上三円以下の貸家数軒あり、内工場付一ヶ所」とある。温が、自宅の北側と西側に、貸家を建てた確かな証拠であった。

他方、九〇(明治二三)年六月二日の読売新聞に、次のような記事がある。

「白銀町の渡部温氏は区内に多くの貸家を有して居らるゝも、常に店子の優待に心がけ、今回も米価騰貴の際とて、一々之を見舞て慰めんは煩はしき限りなればとて、比隣(近所)の平均を失ふをも顧みず、米価騰貴の間のみ特別を以て、一般家賃の数割を引下ぐべしと決し、先頃借家人一同に此由を申送られたる」

この年の日本は、史上初の経済恐慌に見舞われた。米価は前年の二倍に高騰し、東京では餓死者も出た。

九七(明治三〇)年六月一九日には「名誉職の陰徳」と題する東京朝日新聞の記事もある。牛込区内の三歳の子がジフテリアに罹ったが、貧困のため血清療法を受けられず、死に瀕した。見かねた温が医者と協力し、金を贈って全快した。母親は「両氏を神の如くに尊びて、此事を人毎に語りて喜びゐるよし」と言う。

「公儀」の観念は長男朔にも受け継がれたように思われる。朔の代になっても家賃はそのままで、あまりに安すぎるので世間並みに上げてもらいたいと店子が申し出たら、朔は「父から譲られたもので、古い家でもあるから、そんな必要はない」と、取り合わなかったと言う(『東京製綱株式会社七十年史』)。

朔は、駒場農学校(現東京大学農学部)を卒業して農商務省に入り、ドイツに五年間留学をして産業組合などの研究に従事した。農商務官僚として、現在の農協、生協、信用金庫、信用組合の前身となる産業組合法の成立に尽力した。

温の没後、官を辞して実業界に入り、温が創業した東京製綱株式会社の常勤監査役を長く務めた。労働運動にも積極的な理解を示し、同社の組合結成に当たっては、経営者側から主導的な役割を果たした。総同盟の指導者鈴木文治や松岡駒吉と親しく、松岡とは「朔さん」「駒さん」の仲だったという(『東京製綱百年史』)。朔からオートバイを贈られて喜んだ松岡らが、それを見せるために赤い小旗を立てて渡部家に乗りつけたので、神楽坂署(のち合併して現牛込署)が大いに慌てた、とのエピソードもある。

今日、経済学者小池和男は、製綱労働組合を「戦前昭和期、もっとも堅実な組合運動を展開していた」と高く評価している(『高品質日本の起源』二〇一二年)。この組合は共済活動などにも熱心に取り組んだのだった。

朔は、労働組合もまた、産業組合の一形態と考えたのかもしれない。

温が亡くなって一〇日後の読売新聞に「故渡部氏遺族の美挙」と題する、次のような記事が載った。

「先頃死去したる渡部温氏方にては、一昨日其の初七日に当るを以て、親戚知己を招き、仏事を行ひ、且つ蒸物等を配付する筈なりしが、斯る虚礼は一切之れを廃止し、其費用として金百五十円を牛込窮民救助資金の内へ寄付し、二百五十円を東京市養育院感化部基本金の内へ寄付を願出、何れも之を受納したりと」

草葉の陰で、温も満足したことであろう。東京市養育院は、渋沢栄一が亡くなるまで五〇年以上にわたり院長を務めた福祉事業施設であった。松平定信の寛政の改革による七分積金を基に設立されたこの施設は、「公儀」の観念が明治に生かされた施設とも言える。そして思えば、渋沢栄一の「論語と算盤」の思想は、温の想いと一つのものであった。

長男朔の親譲りの鷹揚さは、結局白銀町の宅地を手放し、新宿区立白銀公園を遺した。

休日の白銀公園

苦労知らずの二代目だったから、と言う者もいるが、朔自身は、それほど後悔した風もない。温もまた、天下のものは天下に返す、「これでいいのだ」と思っているのではなかろうか。

なお、白銀公園にほど近い筑土八幡神社の石段には、その改修時に寄付をした渡部温の名前が刻まれている。(了)

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。