第八回 明治政府の宮仕え、そして退職

一八七一(明治四)年七月一四日に廃藩置県が断行された。静岡藩(駿河藩)は廃止され、沼津兵学校は設置基盤を失った。軍隊は新政府に一元化され整理統合された。九月、静岡県は沼津兵学校の兵部省移管を願い出て認められ、一二月、沼津出張兵学寮と改称され大阪から東京に移転した陸軍兵学寮(のちの陸軍士官学校)の分校となり、翌年五月これに吸収合併された。

巨大官僚組織であった幕府は人材の宝庫であった。体制確立を急ぐ新政府がこれに目をつけた。要職には西南雄藩とりわけ薩長出身者が就いたが、中堅クラスは東京と静岡出身者、すなわち旧幕臣が最も多い。「朝敵」の力を借りずして明治政府の存立は不可能だった。仲介の労をとったのが、旧幕幹部の勝海舟や大久保一翁である。幕臣渋沢栄一は新政府出仕の命を断ったが、大久保に「静岡藩は朝廷に非協力的と見られて藩主に迷惑がかかる」と説得されて、やむを得ず出仕した(「雨夜譚」)。「天朝御雇」である。

沼津兵学校の場合も、早くも七〇年一月には一等教授方の田辺太一が外務少丞に任じられ、三月には、同じ一等教授方でのちに渡部温とともに東京製綱会社を起こす赤松則良(大三郎)が兵部省に出仕した。さらに九月には、頭取西周も徴命を受け兵部省に出仕した。このように廃藩置県前から続々と新政府に登用される者が出てきた。

こうした事態に不満を抱いた生徒たちは、抗議の集会を開いた。しかし、兵学校の将来に見切りをつけて、他の道を選ぶ者も出てきた。

一等教授方並から一等教授方に昇進した渡部温も、ついに七一年夏には上京することになった。一〇月の陸軍兵学寮東京移転決定に対応した出仕であったろう。温は一二月、正式に兵部省に出仕して陸軍兵学少教授に任ぜられた。同じ時期に、兵学校の若手同僚で温の従妹と結婚した英学の石橋好一や漢学の中根淑らも陸軍兵学中助教となった。東京に移転して再出発した陸軍兵学寮の教育を、旧沼津兵学校のスタッフが担ったのである。

長崎英語学校・写真中央に校長の温(『長崎県教育史』上巻)

温は、翌七二年六月、『通俗伊蘇普物語』『英文伊蘇普物語』と同時に『仏学初級』という本の出版免許を得ている。この本は「仏語ノイロハヨリシテ天文地理ノ遠大ニ至ルマデノ順序ヲ記載」(『准刻書目』)したものであるが、ひょっとするとフランス式教育を取り入れた陸軍兵学寮のことを考えたのかもしれない。

兵部省の兵部大丞は、兵学校頭取だった西周であった。温にとっては心強かったであろうが、他面、実質トップの兵部大輔は、のちに陸軍の大ボスになる、「猿のような長賊」を率いた、温より一歳年少の山県有朋であった。愉快であろうはずがない。温は早々に、七二年一一月、大蔵省紙幣寮七等出仕に転じた。

紙幣寮は、のちの大蔵省印刷局の前身であるが、当初は紙幣の製造だけではなく発行・交換など紙幣に関する幅広い業務にあたった。初代の紙幣寮トップ紙幣頭は渋沢栄一。温が転じたとき、渋沢は次官級に昇進していたが、温が渋沢の親交を得るようになるのは、この時ではなかったかと思われる。

近代的な貨幣制度の確立のためには、欧米制度の導入が不可欠であり、英語に強い人材が必要であった。温が紙幣寮にスカウトされたのも、そのためであったろう。しかし温がこの仕事に精励したとも思えない。先の号で記したように、温は『通俗伊蘇普物語』の翻訳刊行を行い、他方自宅で隆慶義塾という英学塾を開いている。

七四(明治七)年二月(以後陽暦)温は文部省に転じ、長崎の第五大学区広運学校長を命じられた。広運学校は長崎奉行が設置した英語伝習所に端を発する。かつて温が勤務した蕃書調所の英語科新設よりも早く、日本最初の英語教育施設とされる。長崎は、奉行所勤務の父とともに、少年時代に住んだところである。何かと縁ある転勤であった。

広運学校は、四月に長崎外国語学校となり(一二月長崎英語学校と改称)、同時に同校敷地内に官立の長崎師範学校が設置された。おそらく温の文部省転任と長崎赴任は、これらの学校拡充を見越してのことであろう。温は両校の校長を兼務した。両校は西南戦争による財政緊縮等のため、他の官立英語学校や師範学校とともに、七七年と七八年に相次いで廃止された。

温はそれより早く、七五年七月には両校長を免ぜられ東京外国語学校長に就任した。長崎での在任期間は、約一年半の短さであった。これには次のような事情が絡んでいる。

そもそも東京外国語学校は、開成所を源流としのちの東京大学に発展する開成学校の語学課程と、外務省から移管された外国語学所とが合併して、七三年一一月に正式に設立されたものである。修業年限は上等下等各三年の計六か年で生徒数は約五〇〇人。当初は英仏独露中の五学科だったが、一年後には英語科が東京英語学校(のちに東京大学予備門→第一高等学校)として分離独立した。八六(明治一九)年には東京商業学校(のちの東京商科大学→一橋大学)に吸収合併されている。

東京外国語学校の前任校長は、フランス学の兆民中江篤介であった。彼は七五年二月に校長に就任しながら、ほんの三か月足らずの五月には依願退職してしまった。外国語学校とはいえ儒教に基づく徳育が必要だと主張して文部省と対立したとも、ちょうどその時期設置された元老院の書記官に招かれその方が勤務が楽で家塾の仏蘭西学舎の経営にも便利だったからとも、あるいは英語学校と分離したばかりの校内がゴタゴタしていて校長職に嫌気がさした、とも言われる。

ともあれ、東京英語学校の校長が臨時的に兼務していたポストに、温は急きょ招かれたのであった。奇矯の人、前任校長兆民の尻拭いを、粘り強く実務もこなせる温が託された、というわけであろう。

しかし温も一年半足らずの七七(明治一〇)年一月一二日辞表を提出し依願退職した。温の方とて、土佐っぽ兆民の尻拭いなど真っ平御免、と思ったかもしれない。そして気乗りのしない新政府の宮仕えも、この辺りが潮時とも思ったであろう。

温は、同年二月二四日に版権免許を得て『勧善喩道傳』なる本を出版した。中国の近代化に生涯をささげたアメリカの長老派宣教師W.A.P.マーチン(中国名・丁韙良)が中国語で出版した本に、温が訓点を付したものである。内容は、道徳的な寓話集であるが、中村正直の序文によれば、温が校長を辞するのを惜しんだ生徒たちが餞別の品を贈ったのに応えて、この書を出版したという。西洋の近代的道徳への理解と、併せて漢学への学識をも学生たちに期待したのであろう。これは序文を寄せた中村正直の考え方とも共通する。

『勧善諭道傳』(国立国会図書館蔵)

英学(洋学)だけではなく、漢学も、そして和学も必要だ、この想いは、西洋一辺倒の「文明開化」を眺めれば眺めるほど、温の胸中に強く湧き起ってきたのではなかろうか。

このとき温は、和漢洋学のすべてに、驚愕すべき才能を発揮した先輩柳河春三のことを思い出していたかもしれない。明治政府に出仕した春三は肺病を患い、七〇年二月、取り寄せたウナギを食べて「アアうまかった」の一言を残し、喀血して逝ったのであった。

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。