第五回 開成所英学教授と「御家法」の壁

文久二(一八六二)年正月、二四歳の渡部温は、蕃書調所英語句読教授出役に抜擢され、本格的な英学者の道がはじまった。二年間の蕃書調所稽古人としての修学成績が認められたのである。同年一二月には同僚五人と共に、蕃書調所を改称した洋書調所の英学教授手伝並出役に昇進し、その約一年半後の元治元(一八六四)年九月には英学教授手伝出役へと昇進した。開成所の役職は、おおむね、教授職、教授職並、教授方、教授手伝、教授手伝並、句読教授となっていた。「出役」とは、これらがいまだ幕府の正規の役職でなかったことを意味する。
教授手伝昇進から半年あまりたった慶応元(一八六五)年四月、ロシアに留学する同僚の餞別に、所員一同で、送別文を贈ることが企画された。総勢三五人の所員が、それぞれ得意の語学で激励の文章をつづった。蘭文の神田孝平や柳河春三、独文の加藤弘之といった錚々たるメンバーの中に温も加わった。見事な自筆英文の中段以下に「努力、努力! 貴兄が、完全なる知識を習得して帰国することを期待する」とある。この呼びかけは、英学者の道を歩む温自らの、決意表明でもあったろう。同時に、開成所の中堅所員として自信を持ちはじめた様子がうかがえる。

温自筆送別英文(『幕末洋学者欧文集』)

そもそもこの時期、蘭学に限られた洋学の伝習が他言語に開かれたのは、外交上の必要による。安政年間に各国と結んだ条約には、確認のため蘭文訳が添えられたが、五年後にはこれを廃すと規定された。蘭学以外の専門家養成が急務となった。

万延元(一八六〇)年三月西洋嫌いの井伊大老が桜田門外に倒れて、一時停滞した蕃書調所の体制が建直され、六月には勝麟太郎が蕃書調所頭取助に就任し、八月には初めて英学専門の句読教授が任命された。緊迫化する対外情勢に応じた蕃書調所の体制拡充が急ピッチで進められた。
渡部温は、まさに、この波に乗ったのである。

幕府直轄の蕃書調所への入学資格は、旗本御家人すなわち幕臣直参の子弟に限られた。のちに藩士陪臣にも開かれたが、「御家法」による両者の区別は続いた。教授陣には、幕臣・陪臣の区別なく広く優秀な人材を集めたが、幕府の本音は、できれば幕臣から採用することであった。事実、幹部クラスの教授職は各藩から集められた有能な陪臣が多かったが、若手は幕臣で固められた。

文久年間になると、諸科稽古人およそ一〇〇人のうち英学専攻六、七〇人という事態になり、英学教授陣が拡充された。温にはこれが追い風となった。
慶応二(一八六六)年には、英仏語、数学などの稽古人がますます増加した。とりわけ英語学習者の増加が著しく、これらに対応する制度改革の必要に迫られた。
同年一〇月開成所は、英学教員を三等級に分け、それぞれの定員を決めて、具体的人名とともに幕府に上申した。この時温は、一人だけ、三等級の上の教授職並出役に推挙された。英学の教授職が一人もいないという理由だった。増加する英学教員の統括役を期待されたのである。
しかし、このように順調に昇任を重ねる温の前に、思わざる壁が立ちふさがった。「御家法」が、今度は逆に、温の出世のじゃまになったのである。
幕府は評議の結果、そもそも教員の三等級制を認めず、温の役職については、教授職並ではなく英学教授方出役にとどめた。
開成所は直ちに再申請した。「同人儀、学術抜群、英学教導向き、重立ち引請け指揮致し居り、諸事世話行き届き、稽古人一同信服まかりあり、そのまま差置き候ては、一同の気配にもかかわり」と、最大限の推薦理由が書かれている。しかし評議の結果は、「教授職並手伝」出役という中途半端なものであった。あくまでも「教授職並」を認めないのは、家督を相続していない「部屋住の身分に付」というのが理由であった。
約半年あまり後の慶応三(一八六七)年八月、こんどは、幹部職の調役に任命し、併せて父重三郎が家督を譲って隠居したいと申し出ているので教授職並に昇任させたい、との上申がなされた。しかし評議の結果は「御目見以下の小普請より、直ちに御目見以上の場所へ相願い候ゆえ相整い難」い、とのことであった。将軍への拝謁資格のない御目見以下御家人身分の温に、拝謁資格が必要な職を与えるわけにはいかない、というわけである。手当は教授職並だが肩書はこれまで通り、とされた。幕府倒壊直前に至っても、いまだ「御家法」は生きていたのである。
温の教授職並昇任が認められたのは同年九月二〇日、将軍慶喜が大政奉還を朝廷に願い出るおよそ一か月前であった。

開成所英学教授時代の温の仕事で最も重要なのは、イギリスの陸軍中佐マクドウガルが一八六二年ロンドンで出版したThe Theory of War(戦争論)を、『陸軍士官必携』と題して翻訳出版したことである。慶応三年七月に幕府に献納され、同年一〇月に前半五巻が、翌明治元年七月には残り五巻が刊行された。
この書は、ナポレオン以来の実戦を例に、兵の配置や戦術等を具体的に論じたものである。対外危機のもと、軍の増強に迫られる幕府には、必須の文献であった。
温は序文で「公務教務の余暇を得る毎に、勉めて此編を訳述し」と記し、さらに「直訳を好まず、務めて意解を主とする」とも述べている。戸塚武比古によると、この書は明治以後も軍人の間で広く愛読され、明治二〇年には丸善から四六判洋装本として出版されたとのことである。
巻頭の言を記したのは、柳河春三である。なお、扉には「無盡蔵之印」と温の蔵版朱印が押印され、さらに温の序文末尾には「渡部一郎温識」とあり、「温古知新」の押印があるのも注目される。

『陸軍士官必携』(静岡県立図書館葵文庫蔵)

さらに渡部温は、英学教師として、アメリカの地理学者コーネルの地理書を『地学初歩』と題し、オランダのファン・デル・ペールの英会話本を『英吉利会話篇』と題し、またイギリスのモルレイの文法書を『モルレイ氏英吉利小文典』と題して英文のまま翻刻した。また『英仏単語篇注解』や『英蘭会話訳語』を日本語で刊行した。これらはすべて、英語の教科書や辞書になるものであった。
神田小川町にあった蕃書調所は、文久二年五月に一ツ橋門外の護持院が原に新築移転し、洋書調所と改称した。翌年八月には開成所と改称して組織の拡充を図った。現在の神田錦町、学士会館の場所である。
『江戸幕臣人名事典』によると、当時の温の宿所は、神楽坂に並行する軽子坂にあった。この地には、船荷を飯田濠の神楽河岸から運搬する、軽子が多く住んだという。

渡部温は、のちに現在の白銀公園の地に屋敷を構えるが、すでにこの時期、神楽坂と縁があったのである。神田一ツ橋の開成所までは、歩けば三〇分たらず、若い温には苦もない距離であったろう。
(参考文献:倉沢剛『幕末教育史の研究一』茂住實男「開成所と英学教師」等)

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。