第三回  『通俗伊蘇普物語』の旧幕臣たち

渡部温が翻訳出版した『通俗伊蘇普物語』の主要な原書となった英国人トマス・ジェイムスの本は、東京帝国大学総長や文部大臣を歴任した旧幕臣の外山正一から贈られたものであった。

外山は、年齢は温よりもちょうど十歳若いが、家格はずっと上で、十三歳で蕃書調所に入学して英学を修め、十六歳で開成所教授方となるという俊才であった。一八六六(慶応二)年、十九歳で幕命によって中村正直らとともにイギリスに留学したが、幕府崩壊によって急遽帰国した。温に贈ったジェイムス本はこの時持ち帰ったものと思われる。

維新後いったん静岡に下るが、ほどなく新政府に呼び出され外務省に出仕して米国勤務を命ぜられ、しかし米国滞在中にあっさり官を辞して、都合五年半余りの留学生活ののち帰国、その後はつねに学界の主流に位置した。帝国大学教授として社会学を専門にスペンサーを講じ、御雇教師モースやフェノロサと交わり、英国流の実証的立場から民権を論じ、新体詩運動に参加し、漢字廃止を唱えて羅馬字会を組織するなど、その活動は、まさに八面六臂、じつに多彩であった。

女子教育にも関心をもち東京女学館の創立委員となったが、日本女子大学創設を計画中の成瀬仁蔵に紹介したら、二人は全く人柄も意見も合わず犬猿の仲で、成瀬は「貴方はああいう人間と交際する人であればロクな人ではない」とまで言い出す始末、とは、二人を仲介した渋沢栄一の回想である(『成瀬先生追懐録』)。なにごともスマートにこなす旧幕臣エリートの外山と、女子教育を生涯の志と思いつめた長州出身成瀬との間に、障壁が立ちはだかったのは、やむを得なかったかもしれない。

藤沢梅南の巻頭挿絵

外山は、一八七九(明治一二)年から筑土八幡神社前の牛込津久戸前町に住み、牛込区会議員を第一期から第三期まで渡部温と全く同時期に務め、温の後任として二代目区会議長となり、その時温は副議長であった。一九〇〇(明治三三)年、温より一年あまり早く、五一歳で没した。

『通俗伊蘇普物語』の序文を書いた藤沢梅南(志摩守・次謙)も旧幕臣であった。将軍家代々の奥医師でズーフハルマ(和蘭字彙)を刊行した蘭医桂川甫周(国興)の弟、幕府倒壊時には陸軍副総裁として総裁勝海舟を支えた。維新後、一度は下った静岡から呼び戻されて元老院権大書記官などを務めたが早々に辞して絵筆に余生を託し、一八八一年に死去。姪の今泉みねは『名ごりの夢』で、「叔父のように身にあまる才をもちながらも、借金でしばられて思うような働きもできず、四十八の働きざかりで世を去りましたのは、どう思っても惜しくってなりません」と語っている。多額の借金は、静岡で茶の栽培に手を出したためである。

梅南はBynanの署名で、『通俗伊蘇普物語』計三十五点の挿絵のうち、巻頭のものを含め、九点を描いている。西洋の銅版画をまねたのか、細い線で描いているのが特徴的だが、みねが語る「人のいいものは負でございます」という、性格の良さが表れているようにも見える。

『通俗伊蘇普物語』で最も多く、二十三点の挿絵を描いたのは河鍋暁斎である。鬼才とも反骨絵師とも言われる暁斎は、埼玉県蕨市で河鍋暁斎記念美術館を主宰する曾孫楠美氏のご努力もあって、いまや、毎年、日本中のどこかで展覧会が開かれるほどの超人気画家である。狩野派を受け継いだ正統的で確かな筆力と、明治初期に投獄されるなどの反骨精神が横溢する戯画や風刺画は魅力的で、何度見ても新たな発見がある。

『通俗伊蘇普物語』の挿絵は、ジェイムス本の挿絵、すなわち、かのルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』の挿絵を描いた英国の人気画家ジョン・テニエルの挿絵をもとにしたものであるが、暁斎の躍動的な筆致は原画を上回ってあまりある。

河鍋暁斎の挿絵「闘鶏と鷲の話」

のちに温が牛込白銀町に邸宅を新築したとき、その壁の画を描くために招かれた暁斎は、出されたご馳走と酒にすっかり泥酔して、寝込んでしまいそうになったとき突如約束を思い出し、「温氏首を伸べて何を画くかと見てありしに、唯筆を引きまわして、あたかもミミズの如きものをかき、今日は如何にしたりけん、運筆自由ならずとて筆を止めたり。温氏、唖然、為す所を知らざりきと」というエピソードを残している(『河鍋暁斎翁伝』)。

『通俗伊蘇普物語』の挿絵を描いたもう一人は榊篁邨(綽)で、三点の絵を描いている。榊は蘭学を学んだがロシア語にも通じ、蕃書調所に採用されてロシア語入門書も刊行した。しかし洋画が巧みだった榊の本務は、むしろ活字作成と辞書教本類の印刷にあり、やがて開成所活字役として印刷・出版事業全般の責任者となった。幕府倒壊時には開成所の活字道具一式とともに駿府および沼津に下り、沼津兵学校ではそれを使って活発な出版活動が行われた。この沼津版の中には、温が発行人になったものも多数含まれている。榊もまた明治政府に出仕したが、ほどなく辞官し絵や謡曲に閑暇を慰めた。

以上のように『通俗伊蘇普物語』に関係した人々はすべて旧幕臣で、江戸にとどまった河鍋暁斎のほかはすべて駿府に下り、いったん明治政府に出仕したが早々に辞官した者たちであった。華々しく活躍したかに見える外山正一にしても、どこか時代に斜に構えた趣きがあり、ありあまる才能を浪費した感が深い。外山の生活は、地位のわりには「ごく質素」とは、旧幕臣の長老勝海舟の言である(『氷川清話』)。

そもそもイソップ物語は、奴隷の視点から、活人世を生き抜く知恵を語った寓話であり、子どもの「修身」にはいささか不適当、と思える話も少なくない。

渡部温もそのことには気がついていたと見えて、『通俗伊蘇普物語』の例言で「願くは看官唯其説話の有益なると、意味の深優なるとに注意して、猶又一層の分解を加へ、童蒙へ説諭せらるゝ事あらば、予が本懐是に過ず。」と、ことわっている。

寓話のあとの「教訓」には、温自ら記したものも数多いが、次のようなものがある。

「威勢の盛なるものには、我意の振舞多きものと知れ。」

「甘いものを喰て首頸に鎖を付られて居るより、寧寒貧でも、天性自由の権をうしなはぬ方がましじや。」

「なんでも人は自分のために都合のよい様な事を申ます。万事油断をせずに御聞なされ。」

『通俗伊蘇普物語』には旧幕臣の、無念の想いと諦念がつまっている、と言えようか。

温と藤沢と外山の墓は、徳川慶喜とともに谷中墓地に、暁斎はその近くの谷中瑞輪寺にある。榊の墓は、水戸徳川家墓所のある染井墓地にあったが、整理されて今はない。

(前号で温の住所を牛込白銀町二十八番地としましたが、これは二十七番地の誤りでした。なお、のちに二十九番地と表示変更。)

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。