第七回 沼津へ、そして沼津兵学校教授

江戸幕府が倒壊し、明治時代が始まった。まずは幕府の旗本・御家人、約三万二千人の去就が問題となる。移封する駿府藩の石高は、幕府の一〇分の一。大量リストラは不可避となった。新政府に雇ってもらうか、農商業に携わるか、家達に従って駿府(静岡)に下ると言っても、多くは、収入のあてのない無禄移住である。これをどう選別するか。

このいやな仕事の総指揮を執ったのは、江戸城明渡し交渉に当たった勝海舟。彼は、ともかくも、駿府に召連れる総計約五四〇〇人を選び出し、慶応四(一八六八)年七月に「駿河表召連候家来姓名」という名簿を新政府に提出した。この中に渡部温(当時の名は一郎)も入った。ところが・・・

丁寧に、見事な達筆で書かれた名簿の「洋学教師」の欄に、当然、それとあるはずの名前は「渡部一雪」。「一郎」は「一雪」と名乗ったこともあったのか。

おそらく、走り書きされた原稿の、「郎」のくずし字を、清書者が「雪」と読み誤ったのであろう。「一郎」では、幕臣の名として、あまりに、平凡、単純と思ったかもしれない。こんな事実を、温は知っていたかどうか、いずれにせよ駿府移住に、初めからミソがついたようなものである。

新たに立藩された駿府藩の藩主徳川家達は、当年わずかに四歳、慶喜の後を継いで徳川宗家一六代当主となった。分家の田安家の出で幼名は亀之助。こんな幼い藩主を戴き、住み慣れた江戸の屋敷を明渡し、慣れない田舎暮らしとは、駿府移住組に選ばれた者たちも、惨めな不安に打ちひしがれたことだろう。移住の始まった八月に、脱走して榎本武揚に従い、函館の五稜郭に立てこもって、幕府再興に掛けた者が現れたのも無理はない。

沼津時代の渡部温(『明治文化全集』第14巻)

温の場合、英学者として、幕府から大量に引き継いだ洋書の整理や新たに設置する学校の教師を期待されての移住であった。八月には駿府藩開設予定の明新館付属となり、筆墨料として俸給一か月金一分を与えられた。まことに僅かとはいえ、給金を貰えたのは、多数の無禄移住者に比べれば、まだしも幸運だった。

温が、いつ、どのように移住したのかは不明である。いずれにせよ八月から一〇月までの間には沼津に落ち着いたものと思われる。沼津は、かつて父とともに下田に住んだ温にとっては、縁ある場所である。沼津兵学校創設の動きも具体化し始めた。温は、すでにこの時、幕臣成澤家の娘貞と結婚していた。文久二(一八六二)年の一〇月一日には長男朔太郎(のちに朔と改名)が生まれ、長女文も生まれた。成澤家の人々も沼津に呼び寄せ自邸に住まわせたというから、もちろん温自身の父母も一緒であったろう。

明治元(一八六八)年一一月二三日、温は沼津兵学校一等教授方並に任命された。頭取は西周、一等教授方はのちに共に東京製綱会社を起こすことになる赤松大三郎ら四人、温はそれに次ぐ唯一人の一等教授方並で、頭取を補佐する学校改役をも兼ねた。役金は頭取の五〇〇両、一等教授方の三七〇両に次ぐ三〇〇両。とりあえず生活の基盤は安定した。

沼津兵学校と同附属小学校は、翌年一月八日に開校した。祝いの赤飯がふるまわれた。

沼津兵学校の樋口雄彦氏による詳細な研究によれば(『沼津兵学校の研究』)、実質的に三年余りしか存続しなかった同校で、次々と東京に去っていく教官たちを尻目に、温は、比較的腰を落ち着けて校務に熱心に取り組み、生徒たちから最も信頼された教官だったのではないか、という気がしてくる。沼津城内に在った学校と同じ郭内に住み、自宅に私塾を開き生徒を教え、場合によっては同居させて指導した。寄宿生志願者の吟味のために藩内各所に出張し、駿府藩が別に開設した静岡学問所でも、入学希望者の出張試験を行った。

発見された生徒のノートを見ると、その生徒は、温が刊行した教科書『英吉利会話篇』を熱心に筆写し、明治初期に物理学教科書として使われたアメリカのカッケンボスの原書を温の指導の下で会読し、さらには選ばれた数人の生徒とともに経済学の講義を聴講した。これには後述の『経済説略』が使われたであろう。

名実ともに英学科主任として、「毎日ウェブスターの大辞書を小脇に抱えて登校した」と伝えられる。温の、自信と意欲に満ちた勤務ぶりが目に浮かぶ。

すでに温が上京後のことであるが、廃校が決まった沼津兵学校から東京の陸軍教導団に編入された生徒たちが、数人打ち寄って温のところに押しかけ、その待遇の悪さを訴えているのも、師たる温への信頼の表れと見ることができよう。

沼津市の沼津兵学校記念碑(『図説沼津兵学校』)

そしてもう一つ、兵学校教官としての温の活動として特筆すべきは英学関係の本や教科書の出版である。

沼津兵学校は、教科書などのために、総計およそ一七点の書籍を印刷刊行した。そのうち英学関係の五点はすべて渡部温個人の刊行である。そのうち沼津初版のものは、下記の三点。

『経済説略』は明治二(一八六九)年に英文のまま翻刻された。原本は、イギリスの経済学者ホェートリの書を編集してアイルランドで刊行された小学校の経済学教科書である(上野格)。アダム・スミス『国富論』の紹介があり、スミス学説の日本への導入史上、不滅の意義をもつ、とされる。その後、本書は、開成所時代の後輩で第三代慶応義塾塾長となった小幡篤次郎が『生産道案内』(のち『経済入門』)と題し、また西村茂樹が『経済要旨』と題して翻訳本を刊行した。明治初期の経済学に大きな役割を果たしたのである。

『英国史略』も乾坤二冊の翻刻である(一八七一年刊行)。原本は、今日も続くイギリスのキリスト教知識普及協会(SPCK)が一八六一年にロンドンで出版したEnglish Historyである。古代からの通史で、格好の英国入門書と言えよう。

もう一つの『英文伊蘇普物語』は乾坤二冊の翻刻で刊行は一八七二年夏。兵学校の教科書として使うつもりだったであろうが、この時すでに温は兵学校を辞し上京していた。原本は、『通俗伊蘇普物語』の主要原書となったトマス・ジェイムスが一八六三年にロンドンで刊行したものである(連載第二回で一八四八年ニューヨーク版としたのは誤り)。

このほか、開成所時代の『英吉利会話篇』と『西洋蒙求』を再刊した。後者は西洋史上の逸話を集めたものである。

温が個人で出版したのは何故か。開成所時代同様、詳しい事情は分からない。しかし温は『中外新聞外篇』に「擬製幷重板を禁ずる論」という、日本で最初に著作権を紹介したと言われる記事を翻訳した。出版活動に強い関心を持っていたのであろう。彼は、白銀町の自宅でも出版活動を行なっている。

しかしともあれ、沼津の地でこのようなことが可能だったのは、開成所の活字印刷機とともに駿府に下った元開成所活字御用・榊令輔(綽)の協力があったればこそである。彼は沼津兵学校三等教授として図学方を兼務し、『通俗伊蘇普物語』の挿絵も描いたことはすでに述べた。

温の長男朔は沼津兵学校附属小学校に入学した。榊令輔の長男俶、次男順次郎も同様である。榊兄弟は、二人とものちに高名な医者となった。

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。