第十一回 社会貢献活動へ(二)―荒波に飛び込んで

一八七七(明治一〇)年一月明治政府を依願退職して、現在の神楽坂、白銀公園の地に居を構えた渡部温は、『標註・訂正康煕字典』の出版という大事業にほぼ目途が立った頃から、実業家に転身する一方で、東京府の議会や士族会の仕事にも引っぱり出されるようになった。

温は、八二(明治一五)年二月、東京府会第三回選挙で府会議員に選出された。府会議員の選挙権は、二〇歳以上の男子で地租五円以上の納税者、被選挙権は二五歳以上で地租一〇円以上の納税者、と定められていた。任期四年で二年毎に半数改選、牛込区の定員は三名で、このときの改選定員は一名だった。有権者九九名。温は、有効投票五四票中一七票を得て当選した。記名投票で次点者は七票。以後、温は九六(明治二九)年一一月に病気のため辞職するまで連続六回当選した。

この間温は、議会運営上重要な役割を果たす常置委員に二期選ばれ、またしばしば議長候補者等にもなった。

八九(明治二二)年の市制・町村制施行によって行われた東京市会選挙でも牛込区から議員に選ばれた。市会の定員六〇名、選挙権に所得制限はなかったが市税納税額の多寡で議員定数は三級に区分された。温は一級議員で九二年六月まで一期のみ務めた。市会では、府会のように選挙権に所得制限がなかったので多様な人材が議員となり、より活発な議論が行われた。温も一期のみではあったが、丸ノ内陸軍用地払下問題、上野秋葉原間軌道鉄道撤去問題、水道改良事業問題、特別市制撤廃問題、東京湾澪浚問題等で、調査委員や建議草案委員として、積極的に活動した。

1894年新築の東京府庁舎・現東京国際フォーラムの地(『東京百年史』第3巻)

この時期の東京市会でとりわけ紛糾したのが水道改良事業に伴う、いわゆる水道管疑獄である。

当時の東京市にとって、水道整備は最重要課題であった。市内井戸水の八割は飲料水として不適当、との調査結果もあった。しかし問題は莫大な予算と、使用に耐える水道管が製造できるか、ということであった。

予算上から慎重論も出たが、東京市会は、結局これを推進することに決した。問題は、水道管をどのように調達するかであった。品質が優れた外国品を輸入すべきか、民間事業育成の観点から国産品を使用すべきか。後者を強硬に主張したのは、利権に群がる鉄管鋳造業者たちであった。こうした動きを批判した渋沢栄一が、日本橋兜町路上で暴漢に斬りつけられるという事件まで起こった。渋沢は、市政に大きな権限を持つ市参事会員を務めていた。

結局、国内業者に鉄管製造を請負わせることになったが、基準どおりの製品を期限までに納入できず、これに業者から市側への贈収賄事件が絡み、事態は紛糾した。

温が市会議員の任期を終えたのは、渋沢遭難の少し前ではあるが、九五(明治二八)年一二月には牛込区会議長としてこの事件に関わることになった。議員の中から府知事に対する不信任決議が提出され、これを全会一致で可決したのである。直ちに内務大臣が強権を発動し、牛込区会は解散を命ぜられた。

思いがけない混乱に、温は、ほとほと嫌気がさしたことであろう。

しかしこの時期、温は、これとは別の、とんでもない事件にも巻き込まれた。士族授産金に絡むレース教場事件である。

レース教場とは、正式には東京府レース製造教場。八〇(明治一三)年に東京府が、横浜在住の英国女性を教師に招聘して、士族女性のために、京橋区日吉町(現・中央区銀座八丁目)に開設した職業訓練施設であった。募集人員は二〇名。ハンカチや礼服縁取りのレース飾りの製造は、オランダの博覧会に出品するなど、女性の仕事として当初は好評だった。そこで東京府は、明治維新によって家禄を失った士族を救済するために設置された士族授産金の活用を政府に願い出て、さらなる事業の拡大を企図した。かくして八二年三月、六八、三〇〇円が一〇年間無利子据置きで、東京府に貸付けられることになった。

しかし事は計画通りに進まなかった。施設に入所する士族の女性は期待したほど増加せず、製品の販路もそれほど拡大しなかった。結局東京府は、八八(明治二一)年、この事業を民間に払下げ、その者に政府から借受けた資金を返納させるという措置をとった。

しかしそこには、とんだカラクリが潜んでいた。払下げを受けた丸田某は、滋賀県の郡長から時の府知事高崎五六の引きで東京府吏員に採用され、さらには芝区長に抜擢された人物であった。高崎も丸田も同じ旧薩摩藩士。彼は、借入資金返納期限の九二(明治二五)年になってもこれを返納しなかった。

ここで渡部温の登場となる。府会や市会で幅広く活躍する温は、この問題の解決のために、九一年、東京府士族総代会会長に担がれたのである。

レース教場資金として投じられた士族授産金は、本来、府下三万人とされる東京府士族に交付された金禄公債証書をもとにしたものである。東京府士族総代会は、当然、士族授産金の行方に強い関心を持った。彼らは、九二年七月、丸田某らを相手に「東京府士族所属レース製造事業管理承認並びに財産引渡請求」の訴えを東京地方裁判所に起こした。

これに対して、レース教場生徒らを巻き込んだ丸田らの反発や、事情をよく知らずに不安を抱いた士族会有志が士族総代会事務所に押しかける等、問題は紛糾し、新聞はこれを書き立てた。しかし事態は意外な展開を見せた。

同年一〇月、高崎五六の二代あとの東京府知事・富田鐵之助が自ら、丸田を相手に授産金取戻しの訴えを起こしたのである。富田は清廉な人柄として知られ、日本銀行の初代副総裁で第二代総裁、薩摩出身の大蔵大臣松方正義と対立して罷免されたばかりであった。彼は、勝海舟塾に学んだこともある旧仙台藩士。高崎や丸田ら、薩摩閥の横暴を知り、許しがたい、と思ったであろう。

第12代東京府知事富田鐵之助(『東京府史』第1巻)

一二月、判決が出た。府知事側の全面勝訴であった。丸田側は直ちに上告し大審院まで争ったが、結局翌九三年一〇月、上告棄却の最終判決が出た。しかし問題がこれで解決したわけではなかった。判決が命じた丸田某の返却金は六二、二六一円五一銭。これに対して白銀町の渡部温宅で開かれた士族総代会の会合で報告された丸田某が所持する全財産は、金時計一個と掛軸一幅、時価およそ一五〇円のみ。

九七(明治三〇)年五月三〇日の東京朝日新聞は「士族授産金の一段落」と題して、丸田が借出した六万円のうち、結局士族会の手元に戻ったのは合計二三〇〇円のみで、残る五万七千余円は全くの損失、と報じた。そして「丸田の所在知れ次第、知事より告訴する筈なるが、同人は目下、或離島に潜み居るといふ」とのこと。温は総代会会長を辞任した。温が病気のために府会議員等を辞職して半年あまり後、亡くなる約一年前のことであった。

温が飛び込んだ現実世界の荒波は、予想をはるかに超えた醜悪さだった。晩年を迎えた温は、欲望が万人に開かれた「近代」の明治を、どのような想いで眺めたことであろう。

温は、牛込区会議員を、一八八九(明治二二)年一一月の第一回選挙から九六年一一月に病気で退職するまで連続三期務めた。この間、八九年から九二年まで初代議長に選ばれ、第二代議長外山正一のもとで副議長になったあと、再び九五年から退職まで第三代議長を務めた。このとき、議会解散に追い込まれたのは前述のとおりである。

(参考文献:『東京府史・府会篇』『東京市会史』『東京市史稿』『牛込区史』『東京百年史』東京都公文書館所蔵文書等)

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。