第十回 社会貢献活動へ(一)―実業家として

神楽坂を終の棲家と定めた渡部温は、中国の漢字字典『康煕字典』の訂正という大事業を成し遂げたのち、一転して、社会的活動に乗り出すようになった。

一八八四(明治一七)年六月、渡部温を総代人に、造船会社設立のため、神奈川県浦賀の海軍省用地払下げの願書が政府宛てに出された。『康煕字典』の訂正作業にほぼ目途が立った頃である。発起人に名を連ねたのは、渋沢栄一のほか、三井財閥を支えた益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎ら実業家の大物と、沼津兵学校で数学の教授方手伝だった山田昌邦ら一二名である。

仕掛人は、温よりもちょうど一〇歳若い山田昌邦であろう。彼は幕臣時代に海軍所に入り、幕府倒壊時には榎本武揚の江戸脱出に従って箱館に向かった。しかし房総沖で暴風雨のため難破、九死に一生を得るという体験をした。その後沼津兵学校から民部省に出仕、開拓使勤務をへて札幌農学校の数学助教になり七七(明治一〇)年ごろ退官した。数学の教科書なども出版しているが、やはり船舶への思い入れが強かったらしく、八二(明治一五)年に東京府に願い出た船運会社創立の発起人になっている。

山田の後ろ盾は赤松則良(大三郎)であった。彼は、勝海舟らと咸臨丸で初めて太平洋を横断し、さらには西周らとオランダに留学して造船学等を学び、「日本造船の父」とも言われる。彼はまた、幕府倒壊後、沼津兵学校で一等教授を務めて温とも旧知の仲であり、のち海軍省に出仕して要職を歴任した。数学もできたので、山田の数学教科書の校閲者にもなった。

海軍横須賀造船所長を務めた赤松が、海軍用地払下げ願書に名を連ねることはありえない。しかし山田は、彼の陰の支援を期待したであろう。そして、これまで目立った経済的活動もなく、むしろ旧幕臣の知識人として幅広い人脈を持つ渡部温に期待したのは、おそらく、いまや財界の大物になった渋沢栄一への橋渡しであった。

海軍用地払下げは、結局は実現しなかった。しかしこの失敗経験は次に生きた。渡部、赤松、山田のいわば沼津兵学校三人組は、より狙いをしぼって、横須賀造船所の製綱工場にあるイギリス製製綱機の払下げに焦点を当てた。船舶に不可欠なロープ製造の会社創設を考えたのである。船にとってのロープの重要性は、遭難沈没を経験した山田が、最も深く知るところであった。

こうして、一八八七(明治二〇)年二月一日、麻綱による船舶ロープ製造を目的とする東京製綱会社の創設が実現した。

創立総会で渡部、渋沢、益田の三人が取締役に選ばれた。温が社長に就任し、山田は支配人となった。当初予定したイギリス製製綱機の払下げはすぐには実現しなかったが、それとは別に英米から製綱機を輸入し、麻布区本村町(現・港区南麻布三丁目)に新工場を建設して操業が始まった。

温の孫君代(八九年生まれ)は、五歳の頃の思い出を、「祖父は体が大きく、よく太っていたので、一人乗りの人力車では小さく、二人乗りでは少し広すぎたので、私を乗せると丁度良かったとみえて、よく麻布に連れて行かれた。工場での祖父は、広い所で綱を手廻し機で撚るのを、椅子に腰を掛けてじっと見ていたことが印象に残っている」と語っている。温の没後は長男朔が監査役に、渋沢栄一が会長に就任した。

殖産興業のスローガンのもとで、大量物資の輸送手段である大型船舶の必要は、明らかであった。東京製綱は、のちにワイヤロープ(鋼索)の製造にも乗り出し、順調に業績を伸ばした。その製品は、瀬戸大橋や東京湾レインボーブリッジなどにも使われ、今日ますます世界的企業として発展している。

このようにして渡部温は、思いがけず、実業家としても活躍することになった。その先達は渋沢栄一であり、逆に温もまた、渋沢の重要なサポーターとなった。

東京製綱会社創設に先だつ八五(明治一八)年、渋沢栄一を中心に東京瓦斯会社(当時はガス灯事業)を創立したとき、温は、株主の一人としてこれに加わり、浅野セメントの浅野総一郎や大倉喜八郎らと共に、四人の取締役の一人に就任した。

渋沢栄一(『東京製綱百年史』)

以後温は九八(明治三一)年、病気による退任まで継続して取締役を務め、社長、会長の任にあった渋沢栄一を支えた。渡部家と東京瓦斯会社との関係は深く、温の退任後は長男朔が監査役に就任し、娘婿の東京帝国大学教授(工業化学)高松豊吉は、のちに常務取締役から社長になっている。

東京瓦斯会社は、もともと東京府瓦斯局の事業の払下げによって設立されたものであった。

これを推進した渋沢にとって、旧幕臣で教養人としての品格を持つ旧知の渡部温は、協力者として頼りがいのある人物だったであろう。当時温が、東京府事業の払下げを議論する東京府会の議員だったことも好都合であったにちがいない。

こうして温は、まるで「ミニミニ渋沢」であるかのように、幅広い分野で活躍するようになる。渋沢栄一の伝記資料を収載する大部な『渋沢栄一伝記資料』には、思いのほか多く、渡部温の名を発見することができるのである。

八八(明治二一)年、東京製綱会社社長として、現在の東京商工会議所の前身東京商工会の会員となった温は、渋沢会頭から商法質義会委員一〇名の一人に指名されて商法制定の議論に加わった。そして商法修正意見書調査委員になり、商法第一条の規定を、「商事に関し、この法律(商法)に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法の定めるところによる。」と修正した。日本の商慣習を優先することを明確にしてこの規定は、現在にそのまま引き継がれている。

また渋沢栄一が創設した第一国立銀行では、しばしば、株主代表の一人として総会を主導した。九六(明治二九)年九月に第一国立銀行を、民間の第一銀行(現・みずほ銀行)として営業継続することにした株主総会では、「一寸建議を致したい、諸君に一応御相談かたわら建議を致しまして御賛成を請いたいと存じます」と、頭取渋沢のこれまでの労をねぎらって報奨金を出す建議の口火を切った(「総会議事録」)。

温は、このような活動を、単なる経済的活動というよりも、より広く、日本社会発展のための社会的貢献活動と捉えていたのではなかろうか。

彼はこの時期も神楽坂で出版に関わる活動を継続していた。当時の新聞広告によれば、農商務省出版の『海上保険全書』や『航海日誌』『機関室日誌』の発売人であった。孫の君代は、祖母の貞や母(長男朔の妻)のソノが、発送の手伝いをしていたことを記憶している。

晩年の渡部温(『明治文化全集』第14巻)

そして温は、今日、この事実はほとんど忘れられているが、活版印刷所秀英舎(現・大日本印刷)を創業した彰義隊生き残りの旧幕臣佐久間貞一を助けて、東京板紙会社の社長にもなった。板紙(ボール紙)は、このころ普及し始めた洋装本の表紙のために必要であった。神楽坂にもほど近い牛込区二十騎町に住んでいた佐久間は、牛込区会や東京市会の議員として、温とは親しい仲でもあった。(一説に沼津兵学校掛川支寮で学んだという)

「神楽坂は本の街」と言われる。ひょっとしてそのルーツは、意外にも、渡部温?などと夢想してみるのである。

(『渋沢栄一伝記資料』の活用では渋沢史料館館長・井上潤氏のお世話になりました。記して感謝いたします。)

かたぎり・よしお

日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。