第十六回 私のアルバムの中の神楽坂・その十

昭和二十五年の春まだ早い時期と思われますが、『龍公亭』の三軒先に『花菱』という洋食屋を開いていた父の一番下の妹・利子おばさんに抱かれている私は相変わらずの厚着とリボンです。「私がママよ!」と手を握っているのが母・竹野、その隣にいるのが他家に嫁いで六児の母となっていた竹野の姉・松子です。

龍公亭の横の路地から通りの向かいの菱屋がみえる

レストラン『花菱』は戦後に開業した店ですが、田原屋と同じく料亭さんにも仕出しで料理を提供していました。サラダやステーキやシチューがおいしかったのを覚えています。黒い小判型の漆塗りの弁当箱に入った洋食弁当は二段重ねになっていて、芸者さんたちに人気でした。お座敷でお客様と一緒に食べたりしない芸者さんたちに、気の利いたお客様は、時に洋食弁当を取ってご馳走するのです。そうすると芸者さんたちはたいそうご機嫌になってサービスも倍増するというわけです。父の妹二人と、その夫たちもたまたま兄弟でしたが、その二夫婦で一緒にレストランをやっていたのです。神楽坂で人気のあった『花菱』も夫たちが病気になったことから昭和の終わりに幕を閉じてしまいました。ただ、二人の叔母・利子おばさんと綾子おばさんは九十を過ぎた今も神楽坂にいて、元気で余生を楽しんでいる様子です。

写真の背景に見える『菱屋糸店』の建物ですが、車の後ろに見える木造二階建ての窓には連子格子がはめられているのがわかります。

上の写真と同時期の菱屋糸本店正面

『菱屋』の天利義一さん(現当主)が当時の建物の正面から写した写真を見せてくださいました。昔の商店の様子がよくわかります。和洋の縫い糸や毛糸、綿製品を扱う大店としての店構えも立派ですが、天利家は神楽坂でも指折りの名家でした。それが証拠に大正十年発行の『牛込町誌』(牛込区史編纂会編)の中には、義一さんの祖父の天利庄次郎氏の名前が随所に出てきます。市会議員として、また神楽町総代として天利氏の名前が写真入りで記録されています。

当時の神楽坂には明治三十三年創立の『睦會』というものがあり、天利氏はその委員長。十六名の委員の中には私の祖父・飯田榮吉や田原屋の奥田定吉氏、助六の石井要氏、宮坂金物店の宮坂鐵太郎氏、木村屋の木村徳次氏、山本薬局の山本一蔵氏も名を連ねています。会の目的は会員の相互の親睦だそうで、委員長は委員の互選によるとされています。一丁目の居住者のための『共和會』、二丁目の居住者のための『共交會』と並び三丁目の居住者のための『睦會』があったということになります。ちなみに当時の神楽坂、一丁目は二十四名、二丁目は百八十名、三丁目は七十四名が居住していたそうですが、それもこれも神楽坂は三丁目までで、坂下は牛込見附、坂上は肴町と呼ばれていたころの話です。

江戸から明治にかけて町民に払い下げられた武家屋敷跡の神楽坂では、こういった人たちによって街づくりがなされてきたのです。まずは住民の親睦を図る町会、安心して暮らすための警察、保健衛生施設。そして商業の発展のための各種銀行。遊芸娯楽のための寄席や貸席などを含む花柳界も整備されました。

現在の神楽坂商店街の発展の礎は、こうした先人たちの努力と先見の明によって開拓され形作られてきたということを忘れてはいけないと思うのです。

いいだ きみこ

昭和24年6月26日、神楽坂生まれ。幼稚園から高校まで白百合学園で学び、白百合女子大学ではフランス文学を専攻。平成11年12月より(有)龍公亭代表取締役。