第十五回 私のアルバムの中の神楽坂・その九

昭和二十六年の神楽坂はまだこんな感じの街でした。

左側に見えるのは、龍公亭の外壁です。自転車の向かう方角に住まいがありました。今は隣が敷地いっぱいにビルを建てていますから路地はほとんどありませんが、この写真ではまだ空き地のようです。

通りの向こう側に見える看板には「電灯 電熱 電力工事」「神楽坂 竹谷電気」と書いてあります。戦後の復興期から高度成長期にかけて、この辺りの人々は竹谷電気さんにどんなにお世話になったことか。残念ながら、現在は牛込中央通りに引っ越してしまいましたが。その隣には「福島ピアノ」の建物も少し見えます。

高い建物はなく、空が広々と見えます。足元も舗装されていないまま土が見えます。

母の顔を見ると、戦争が終わってやっと平和な時代が来たという安堵感と、小さい子供を守っている幸福感がにじみ出ているような気がします。

なにしろ戦時中は徴用で中島飛行機に通い、会計係として働いていた父が、毎朝家を出るときには今夜無事に帰れるかどうかわからないと、母と見つめ合い、水盃を交わしたといいます。日本最大の航空機工場であった中島飛行機武蔵野製作所は、現在の「武蔵野中央公園」のあたりにありましたが、度々爆撃にあい、父も職場の同僚を目の前で次々と失ったと話していました。そんな父は亡くなるまで、生き残った仲間たちが作った「武蔵野給友会」という会で、往時の同僚たちと集まっては犠牲者の方々を偲んでおりました。

写真で母が押しているのは、店の出前用の自転車です。当時としては貴重な乗り物でした。私も後にこの大きな男乗りの自転車で、なにかというと「危ない!」という両親の目を盗んで乗り方を覚えたのです。そのせいでいまだに、自転車にまたがってからでないとこぎだせないというハンディを負うことになりました。

坂の多い神楽坂を自転車に乗って飛び回っている私の姿を見かけた方は多いと思いますが、このころから自転車に乗っていたのですから、このいたずらっぽい表情を見るかぎり、根はオテンバなのかもしれません。

夏だというのに半袖のセーターに白いブルマー、頭にはやはり母の大好きなリボンをむすんでいます。私は母の着せ替え人形でした。

どの写真を見ても頭には大きなリボン。当時はやりの『ひまわり』や『それいゆ』といった少女チックな雑誌の愛読者だった母は、私に自分のかなえられなかった夢をたくしたようです。学校ではずっと制服でしたし、私は何も考えずに与えられたものを着て過ごし、ファッションに関してはまるで無頓着でした。

最近でも時々とんちんかんな格好をして店に現れ、お嫁さんの失笑をかうことがあるくらいです。

なにしろ私の通った白百合女子大学も、在学当時は全員が制服でした。四年生になるという春に結婚して妊娠した私は、その自衛隊のようなモスグリーンの制服のタイトスカートをひとり、巻きスカートに直して京王線の仙川まで通っておりました。そうして卒業直前の一月に生まれた第一子が、今の龍公亭を背負って立つ四代目の竜一ということになります。長男が子供のころはアメリカにいたので、自転車に乗ることもなかったのですが、長女の真紀が幼稚園に通う頃には、母のように、娘をよく自転車に乗せて走り回ったこともなつかしく思い出されます。

いいだ きみこ

昭和24年6月26日、神楽坂生まれ。幼稚園から高校まで白百合学園で学び、白百合女子大学ではフランス文学を専攻。平成11年12月より(有)龍公亭代表取締役。