第5回 林芙美子と長谷川時雨 ルンペンの日記(市ヶ谷左内町/「放浪記」)

「戦後、林芙美子さんに会ったら、林さんきつい口調で言うのですよ。私は三上(於菟吉)さんには世に出してもらった恩義を感じるが長谷川さんには感じない。『放浪記』にしても最初手にして長谷川さんがこんなものはルンペンの日記だって言ったのを三上さんが推してくれたのだからって。偉くなると『女人藝術』の出身だと言われることをひどく嫌がった人だけれど、それなりの理由はあったのではないですか。」

(尾形明子著「女人芸術の人びと」より川瀬美子)

もれなく今回も、編集長と電話密談の上原稿を書き直している。残り少なくなってきた時間で大切なことをたくさん語ろうとするとページが何枚あっても足りず膨れてしまうので、「女人藝術」という巨大な皿に乗って赤い輪舞曲(ロンド)を踊った女性たちの「考えさせらえる運命」については泣く泣く割愛することとなった。「予定通り林芙美子のことを軸にしようと思います」と告げると、編集長は時雨ファンのわたしにこう言った。

「なるほど、それでモカコさんは、やっぱりバッサリと林芙美子を斬るわけ?」

面白い質問だと思ったので記しておく。わたしは答えた。

「いいえ、違います。林芙美子の視点に立って書きます。小説家の自分だから書けることがあると思うので」 時雨さんは林芙美子の文学を理解しなかった。そのことは二人の関係において永劫的な致命傷だったと、江國香織さんの評価あってこそ今がある小説家の自分は考える。

(いさぎよく清浄空白へ還へられた仏様。/ おつかれでせう……。/あんなに伸びをして、/勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き、/長谷川さんは何処へゆかれたのでせうか。/私は生きて巷の中でかぼちゃを食べてゐます)

長谷川時雨が亡くなった時に林芙美子が書いたこの追悼文を当初、背景を何も知らぬまま読んだ自分は、長谷川時雨を愛する者として強い憤りを感じた。実際、林芙美子の豪邸に原稿を取りに行き、長らく待たされた挙句これを手にした若林つやは「今思っても載せるんじゃなかった」と回想で述べている。また愛弟子熱田優子さんは葬儀で泣いたことを「甘ちゃんだね」と芙美子に嘲るように笑われた。林芙美子は「友引」を理由に告別式は欠席している。

林芙美子という人間について触れよう。芙美子はたしかに一言で言うと性格が悪かった。平気で人の原稿を預かり、出版社に渡しておくと言っては机の中にしまっておいたまま「あ、あの原稿ダメだって」と平気で返してくるような人。他の人に仕事が行くのを嫌い、あの手この手で阻止した。林芙美子の葬儀の冒頭では川端康成が「ひどいこともしたのですが、骨になる故人をどうか許してやってください」と頭を下げた。人格者ではなかった。今「放浪記」は、森光子から仲間由紀恵になり、林芙美子の面影もないが、大竹しのぶが演じる、線の野太い、生命力と雑草魂に満ちた、ゴウの強い芙美子の姿は事実に近いと思う。それには、炭坑町を父と行商しながら、貧しさの中を這い上がってきた、彼女の生い立ちからくる部分は大きいと思っていて、しかしそっちの方向に放たれるアグレッシヴさは、藝術女人たちには、ノーサンキューだったように見える。

「女人藝術(にょにんげいじゅつ)」という雑誌、サロンが、後年あれほど赤に傾きながらもどこか呑気で“共感者(シンパサイザー)”の域を出なかったと言われる所以は、そこに集う女人たちに裕福な家のお嬢様が多く、時代に翻弄されながらも時雨さんはじめ、それなりの暮らしを送っていた人たちが多かったというところだと思う。あの時代に芸術や文学に打ち込める環境というのがそもそもそうであるし、そういう世間知らずのお嬢さんが「女人藝術」に出会うことによって、赤い輪舞曲を踊り、地下活動や労働者的(プロレタリア)な暮らしに転身し、非常に厳しい運命を生き抜いていくという一面もあるのだが「女人藝術」というのは基本的にはお嬢様の集まりだった。そういった環境に根本的に芙美子が相容れず、後年、距離を置いていくというのは、わからない話ではない。正直わたしも、同年代なら林芙美子のそばには居たくない。ただ「女人藝術」は居心地の悪い場所だったろうな、とは思う。図抜けた才能を持っていたのに、藝術女人たちにとって「放浪記」は「ルンペンの日記」であり、彼女はずっと「醜いあひるの子」であった。(もちろん仲良くなった人もいる)そしてその手綱を引いていたのが、彼女にとっては長谷川時雨だったのではないだろうか。

わたしは個人的にこの部分が前からずっと引っ掛かっている。長谷川時雨は林芙美子を可愛がったと、様々な藝術女人の回想にあったが、作品を認めていない以上それはただ「あまり見ない面白い生き物」を「イロモノ」として可愛がったにすぎない。酔うと芙美子はいつも「どじょう掬い」を踊り、時雨さんは「どじょう掬いのお芙美ちゃん」と呼んで親しんでいたが、そこには多少のヒエラルキーと"上から感“を感じるし、それを踊る林芙美子本人が「笑わせているようで、笑われている」ということを、誰よりも強く感じていたのではないか。

芙美子は、三上於菟吉が銀座で女性と一緒に歩いているところにバッタリ出くわし、その場で原稿を渡した。女性は「火の鳥」の主宰者で詩人の片山廣子、ふたりは親しげな雰囲気だった。(第3回で記した6年前の於菟吉の浮気相手はなんとこの人!)三上は気まずい状況にも関わらず三人でカフェに入りその場で丁寧に原稿を読んだ。(ここにわたしは三上さんの文学への深い愛を感じる)三上は芙美子の文学に新しい時代の旋律と響きを強く感じた。なので廣子といたことを伏せ、出版社で彼女の原稿をたまたま見つけたと言って時雨に推薦した。時雨さんは「気が乗らないけど、於菟吉さんがそこまで言うなら」ということで掲載した。この事実をどこかで彼女は知った。その時に芙美子は、しばらくの間は耐え難きを耐え、やがて大きく羽ばたいてここから離れようと誓ったと思う。

長谷川時雨の大いなる功績の一つが、林芙美子を世に出したことである。同時に、彼女の大いなる失点は、その文学を解さなかったことである。時雨さんは、おなかは大きい人だったけれど、野暮を極端に嫌った。女人藝術を一緒に始めた、当時もう大御所の生田花世さんへの態度も周りが「見ていて可哀想なくらい」に酷かった。時雨さんが辛辣に当たったタイプの(不美人で、垢抜けず、粘着で愚鈍な)花世さんは、しかし芯が強く温かで皆に慕われていた。時雨さんは朝ドラのヒロインのような女の子を可愛がった。心からお慕いしている時雨さんですが、唯一わたしは、その仕分けの仕方がブルジョアっぽくて好きではない。だからきっと、林芙美子は、原稿を取りに来た若林つやに、ピカピカ光る銀シャリのおにぎりを出しながら、「巷でかぼちゃを食べています」と書いたのだろう。

私小説作家にとって自分の文学は生き様そのもの。もし、時雨さんが、彼女の生き様や暮らし方そのものを「野暮」だと一蹴せずに「放浪記」を読んだなら、彼女のず抜けた才気にすぐ気づいたはずだと思う。時代の変化とともに輪郭すら失ってしまった作品も多い「女人藝術」の中で、林芙美子や尾崎翠の作品は、普遍性を貫き、百年経った今読んでも圧倒的に瑞々しい。まさにそれは三上さんが求めた「懸命な生活観」そのものであり、時雨さんが芙美子を解さなかったことはとても残念なことである。

しかし芙美子の中には、憎い気持ちと同時に、時雨を強く意識し、時雨にこそ自分を認めてもらいたい気持ちがあっただろうなと思う。そのような記載は資料にはない。それはわたしが同業者として感じる、小説家の性。時雨は赤の他人ではなかったのだから。そんな想いは雑草魂にさらに火をつけ、芙美子を押し上げて行ったのかも。林芙美子は、時雨の名を超え、昭和を代表する大家の一人となり、今もなおその名を轟かせている。

なかじま・もかこ
日本の小説家。1979年滋賀県生まれ。第四回新潮エンターテイメント大賞を受賞し(選考・江國香織氏)2009年処女作「蝶番」にて文壇デビュー。