第4回 長谷川時雨の“女人藝術” 時代の森羅万象を映し続けた鏡(左内町/「女人藝術」)

「女人藝術(にょにんげいじゅつ)」という冊子は昭和3年から4年間刊行されましたが、その費用の全てをほぼ、夫の三上於菟吉(みかみおときち)が賄いました。「いいもの」と「売れるもの」の間に苦しく深い溝があるのはどこの時代も同じで、文壇的にも高い評価を受け「時雨が返り咲いた」と言わしめた「女人藝術」が、豊富な書き手に恵まれ、売れ線にブレることなく最初から最後まで女人藝術たれたのは、実はひとえに、三上於菟吉の惜しみなくよどみない出資があったからで、この大いなる「理解者(パトロン)」に対する文学的再評価というものを文壇にもっとしてほしい、と、わたしは考えている。「女人藝術」にまつわる時雨さんの数々の逸話——貧しい作家には前金で原稿料を持たせて帰したとか、左内町の編集室にはいつも美味しいお酒やご飯があって等などに、三上さんが倒れるまで書き続けた売れ線の内側に生まれたものだと思うと、長谷川時雨ご当人が三上さんにどれだけ感謝しているか、それはもう、計り知れなすぎることが測り知れる。

「いい騎手も駿馬(しゅんめ)を要する。そこで私たちの『女人藝術』がいかにいい女人騎手のために駿馬たらんことを思う」

女性文筆の公器であることを編集方針とし、長谷川時雨のこの言葉で始まった「女人藝術」は、全誌においてその姿勢を貫き、詩人にも小説家にも新人にも大家にも、アナーキスト(無政府主義者)にもマルキスト(ソビエト共産主義)にも、心優しい乙女にもしたたかな女にも、令嬢にも娼婦にも、芸術家にも自己顕示したいだけの女にも、発することを欲している女性に平等に馬を与えた。

フェミニズム! と一つにまとめてもその「女」の中には、本当に狡い女とか、ふてぶてしい女とか、相手を利用できるだけ利用する女とかも混ざっているのは昔も同じで、「女人芸術」の後身の「輝ク」の編集を十年つとめた若林つや氏は「女の作家の裏側をあまり見過ぎてとても私には、という思いになった」と書いているし、時雨に煮え湯を飲ませるような者もたくさんいた。けれど時雨は「おこがましいことですが、わたしは誰の為彼の為ということでなしに女性ぜんたいが押出されて好いと思っていますので、やられていると感じていてもその人のためにも何かよいように尽くすこともあります」と、ある手紙で語っている。

清濁併せ呑んで女性を押し出す。長谷川時雨のこの姿勢こそが、金銭的な状況もふくめ、彼女の懐だけが成し得た最大の偉業であるとわたしは思っている。彼女は嫌いなものや価値観の異なるものを、だからと言って切ったり決してしなかった。文学的、女性的価値を感じれば載せた。思想的なもの。それに関しても時雨は寛容であった。

今の時代に例えるなら、改憲反対、やら、アベ死ね、みたいなものやら、原発や福島に関する多少過激な発言。当時は過酷な状況で働かされ過労死する労働者の現状を改善するため共産主義(マルキシズム)が叫ばれることが多かった。女人藝術の執筆陣であった村岡花子を描いたドラマ「花子とアン」でも黒木華演ずる花子の妹が働き先の工場で酷い扱いを受けて命からがら逃げ出してくる。今と違って女性の地位は低く、法律的にも発言が自由ではなく、投獄されたり酷い拷問を受けたりするような時代に、長谷川時雨は、ほとんど校正で消すことなく、書き手には思ったままを書かせた。ゆえに誌面は玉石混淆(ぎょくせきこんごう)、昭和4年に世界恐慌が起きて世相が不安定になってからは、ちゃんとした軸もないまま難しい言葉を羅列して社会的な記事を書く筆者や、売れるために流れに乗っかり社会派を気取る女流作家が増え、三上於菟吉は3周年号の座談会で「僕は内容の徹底を切に望む。不熟な知的デパートであるより懸命な生活観、生活主張を僕たちは読みたい」と苦言を呈している。

時雨自身も「お腹が充分できて、ゆっくり世の中に出るやうにしなければすぐ行きづまってしまひます」と新人たちに告げてはいるが、時雨さんの「それもそれ」というような泰然としたスタンスのおかげで「女人藝術」は数回の発禁を食らいながらも、激動の時代の森羅万象すべてを、余すことなく映し続けた「公器」たりえた。生涯アナーキストとして生き、翻訳家でもあった望月百合子さんはこう言う。

「長谷川さんは思想がない、なんて言われていましたが、それは違いますね。時雨さんは一党一派にちぢこまる人じゃない。いわば人間主義で、大きくつつんでらした、私のような思想を持っている者でもね。あれほどおなかの大きい人って、わたしが今まで出会ったなかで男にも女にもちょっといませんね」

そんな「女人藝術」は、創刊号から1年くらいはまさにその名にふさわしく豊潤で、芸術的な構成に、読者の購買意欲をそそる企画もあってイマドキなかんじ。表紙や、所々の挿絵は愛らしく、冒頭に著名人のグラビアもある。

夫の三上さんも、本当に涙ぐましい協力をされていて、女流作家と男性作家の恋愛座談会とか、質問に答えるコーナーとか、様々な企画に、何度も登場している。「文藝春秋」とも親交が深く、女子ばかりの雑誌だから赤い帯を締めていると言われた「女人藝術」を盛り上げようと、当時の著名作家たちの協力を惜しまない姿勢がうかがえる。「運勢」もあって、昭和4年の1月号では「永井荷風・凶(暗剣殺にかかるゆえ注意)」や「三上於菟吉・末吉(温順に家人に從ふべき)」など。(笑)

創刊1周年には一年を振り返る座談会があり、先の「自伝的恋愛小説号」は大変反響があったが「そういう歌い文句で釣るのはどうかと思う」「恋愛を売り物にしたくはない」という実益度外視の執筆陣と、「経営的には購買欲をそそる企画は必要なんです」という編集者サイドとのやりとりなんかが赤裸々に綴られていて、今わたしが読んでいても面白い。

対談や作家人気番付、男性訪問など、読者を惹きつける企画を提案していたのは時雨の妹の画家の春子で、彼女は三上頼みの女人藝術を姉の為にも自立した雑誌にしたいと思っていたが、書き手たちはもっと固い雑誌にすべきだと言い、春子は「一冊出すのにいくらかかると思ってるんだ、ろくなものも書かないくせに」とキレた。そんな流れもあって春子はパリに留学することになる。

思想家たちの叫びもあり、与謝野晶子や岡本かの子など大家の詩もあり、新人劇作家の戯曲もあり、翻訳小説もあり、合間には三上於菟吉の新刊広告もババン、とあり。弾ける個性を全て芸術でくるんで刊行していた時雨だが、春子さんが留学した頃から、彼女の不在と世界恐慌が芸術色を薄め、女人藝術は「長谷川時雨の赤い白粉(おしろい)」と呼ばれるほど、左に傾き、女人藝術の購読者リストがアカのリストとして警察に渡るという噂が流れ始める。

雑誌をやりたい。そう思って最初に始めた前期「女人藝術」は演劇雑誌で、第2号が印刷所に回っている間に関東大震災が起こり、廃刊に追い込まれた。それから8年の月日が流れリベンジとして立ち上げた後期「女人藝術」は昭和3年から7年という、昭和の歴史において非常に重要な潮目の時期に刊行され続け、皆を巻き込み、たくさんの女たちの運命を大きく変えた。

「どうなんだろう。 〟女人藝術〝が残した功績も物凄いことだけれど、それによって人生が変わって波乱の生涯となった女性たちもたくさんいたよね。彼女たちはもしかしたら〟女人藝術〝に関わらなければもっと穏やかな日々を生きられたのではないだろうかと僕は思ってしまう」

編集長がわたしにしみじみこう言ったことがある。林芙美子を始めとする新鋭の女性作家をたくさん輩出し、女性たちの運命を大きく変えながら「女人藝術」は、もんどりうってアカく転がり膨れ上がって行った。三上という火の玉が支え、時雨という火の玉が赤い帯を締めて放った女の雑誌はやはり巨大な火の玉であった。激動を生きた女性たちの運命や、三上の愛人、羽根田芙蓉のこと、女人芸術の皆から見た長谷川時雨については次回。

特に時雨さんの葬式にも出なかった林芙美子と長谷川時雨の確執については林芙美子の立場になって公平に語っていくつもりです、お楽しみに。(続く)

なかじま・もかこ
日本の小説家。1979年滋賀県生まれ。第四回新潮エンターテイメント大賞を受賞し(選考・江國香織氏)2009年処女作「蝶番」にて文壇デビュー。