第3回 太陽と太陽の結婚(後編) ふたりを繋ぎ留めるもの(牛込中町/「文学者の日記」)

『女人藝術(にょにんげいじゅつ)は、美人揃(びじんぞろ)ひである。(私が獨身(どくしん)であつたなら!)中でも、時雨(しぐれ)さんは、美人である——』

こんな出だしで始まる、長谷川時雨について書かれた直木三十五の短いエッセイを見つけた。直木三十五と三上於菟吉は共に出版社も立ち上げ、また関東大震災の折には、家を失った直木一家が(しかし出版業で作ってしまった借金も棒引きになり直木は喜んでいた)しばらくの間、三上&時雨宅に身を寄せていたほど夫妻と親交が深い。

『……例へば最近、その三上を對手(あいて)として、いい齡(とし)をしながら(失言?)將棋(しゅうぎ)を稽古しかけたりしてゐる。(中略)また、その趣味の澁(しぶ)い例を擧げると、三上がその著名なる東京市内出没行脚(とうきやうしないしゅつぼつあんぎゃ)をやって二十日も歸(かえ)って來(こ)ないと時雨さんは、薄暗い部屋の中で端座して、たゞ一人双手(もろて)に香爐(こうろ)を捧げて、香を聞いてゐる。何のためだと思ふと、氣を静める妙法(めうはふ)で——露骨に、これを説明すると、やきもち静め——その澁さ、床しさ、到底(たうてい)女人藝術同人などの、考へつく所のものではない……』
昭和7年頃 赤坂檜町の家で

この「東京市内出没行脚」こそ、酒と女で知られた三上於菟吉が、待合やら、銀座のカフェー(今のクラブ)や、芸妓やらその他もろもろの「花街ごと」に勤しみ自宅を空けている時期のことなのだが、直木さんの書き方や、三上の留守中に宅を訪ねてこれを目撃した直木さんの姿などは、想像するとどこか笑ってしまう可笑しみがあって、「女人藝術」以降、つまり昭和3年以降のふたりの関係は、雪解けを迎え、時雨さんは「達観」の域にいるように見える。実際この頃に三上於菟吉は袋町に愛人を囲うのだが、時雨は愛人宅へ着物やらを差し入れし、三上の好む煙草や煎餅などを細かく教えたりもしている。(愛人にとってはある種の洗礼とも言えるけれども……汗)

けれどその数年前の時雨さんは、瀬戸際にいた。

大正11年の七夕に書かれた日記(「文学者の日記」)には、三上さんの机を整理するのが日課である時雨さんが笊(ざる)の紙屑籠(かみくずかご)から、浮気相手に書いた恋文の書き損じを見つけてしまったと綴られている。三上が新調した夏服はその女との密会のためだったなど内容は生々しい。出版されてはいても遺品から出てきた個人的な日記ゆえ詳細は割愛するが、長い日記はこう締めくくられている。

『三上の過去 現在の 女を見る眼を見ると、わたしの誇りはあとかたもなくなる。灰だ、一切が灰だ、灰色の生活だ。(中略)わたしは かうなるまでに 仁にすこしでも さびしい思いをさせた事を思ひ 父上が病床から わたしが東京へ来る時の 姿を追った眼差(まなざし)を思ひ出すと 自分が引き裂いてしまいたいやうになる。不埒(ふらち)な無せつせいな 男の 一時の熱情のために わたしは沢山の罪を作った。わたしは大声に泣きたい』

大正8年、松井須磨子という大女優が恋人を追いかけて死んだ。この頃の時雨さんは慢性的な自責の念に駆られており、須磨子のことを書いた「美人伝」には『死ねるものは幸福だと思っていたまっただなかを、グンと押して他の人が通りぬけていってしまったように、自分のすぐそばに死の門が扉をあけてたおりなので、私はなんの躊躇もなく“よく死にましたね”と答えてしまった』と書いている。牛込矢来町で事実上の結婚生活を始めた頃のことだ。

当時は「死」をもってしか結ばれない男女関係が多く存在していたため、死を選ぶことは「生を放棄」というよりも「究極に生きる」ことでもあり、「死」には美しさと潔さを伴った響きがあった。自分はもう40で、同時に長谷川家の長女であるのにも関わらず、寝たきりの父、母を亡くした幼い甥を押し切り、恋に生きていることへの自責の念、時雨さんはいっそ死んでしまいたいと何度も思っていたものの、煮え切らない自分の脇を、彗星が横切るがごとくスパッと死んでいった須磨子にハッとさせられ、我に返ったように見える。以降、時雨さんはより一層三上を世に出すことに命を注ぐようになる。彼女の苦悩を知る三上於菟吉はおそらくこの頃、最も辛かったであろうと思う。

須磨子が死んだ翌年の6月、菊池寛の「真珠夫人」の新聞連載が始まり、これが空前の大ヒット。大衆文学の時代が華々しく幕を開けた。友人の活躍に触発された於菟吉はすぐに「悪魔の恋」という作品を書き上げた。長谷川時雨は、一読するとすぐに講談社の生田蝶介のところへ持っていった。その連載を皮切りに三上於菟吉の元には仕事が入ってくるようになった。二人は家賃八十円の、牛込中町に引っ越し、その家で過ごした2〜3年の間に三上さんはドカドカ売れ、菊池寛は「文藝春秋」という雑誌を創刊した。この頃時雨さんは、日に日に派手になってゆく夫の女性関係に「大声に泣きたい」という辛い日々を過ごす。死にたい、ではなく泣きたい、になっているところに時雨さんが愛を失ったと感じている変化がある。三上さんは三上さんで「これまで長らく踏みにじられていた」男としての誇りがあったのだろう、ようやく解き放たれた才能と野生は、溢れ出したが最後、押しとどめることができなかった。二人の齟齬(そご)は日々の中での雪解けが難しく、互いの中に蟠(わだかま)った何かは、翌年の大震災を二人で乗り越えた後もなお、消えることなく互いの胸の内につかえたままだったのではないかと思う。

元号が変わり、最初に大きな行動を起こしたのは三上さんだった。爆発的に売れた円本(著書)の印税二万円を、これまでのお詫びに「ダイヤでも買ってください」と彼は時雨さんに差し出した。時雨さんは「ダイヤは要りませんから雑誌を作らせてください」と言った。夫婦の愛を形にしようと差し出した手を時雨さんは文学で握り返した。この時三上さんは、苦笑というか、少し寂しい気持ちがあったと思う。ここらへんの埋まらなさが、三上さんが後に時雨さん似の若い愛人を囲うことと関係があるのだろうなと思う。

けれども三上さんは、出来上がった「女人藝術」の創刊号を見て、絶句した。十数年連れ添ってきた妻が、どれだけ才気溢れる、もの凄い文化人であったのだったか。「長谷川時雨」は毅然としてそこにいた。その全盛期を噂でしか知らなかった元文学青年は、この時リアルタイムで長谷川時雨の持つ懐の非凡さを改めて思い知った。圧倒的な出来栄えに敬服した三上於菟吉は以降「女人藝術」を全力でサポートする。その献身的な支援に長谷川時雨は心から感謝し、互いの蟠りは溶けてゆく。

男女というものは難しい。最初「それ」があって、本能的に強く惹かれあったはずのものが、日々や慣れや生活などで霞み、薄れ、時に見えなくなってゆく。だけど、どうして離れられないのか、どうして他の人ではダメなのか、自分にとってその相手の中にしかない唯一無二な、代りのきかないもの。そこに焦点を当てれば答えが見えてくる。ふたりを繋ぎ留めるもの。その蝶番は絶対的なもので、相対性を持たない。記憶。子供。価値観。圧倒的な瞬間、なこともあるし、重ねてきた日々、なことも。長谷川時雨と三上於菟吉を繋ぎ留め続けたもの。それは互いが互いの中に見る「独創的な文学」に対する敬意だったのではないかと思う。独創性はそれを携える肉体、細胞、人間そのものに満ちて、互いは互いの虜になった。

原稿の打ち合わせの時に編集長がわたしにこう聞いた。

「あの誰も相手にしなかった三上於菟吉の純文処女作は実際はどうだったんだろう? 面白かったとモカコさんは思う? 僕は実は名作なんじゃないかと思っているんだけど」

みなさんはどう思いますか。わたしはこう思っています。「春光の下に」は名作で、しかし新しすぎた。純文学の目しか持っていない業界人には響かなかったけれど、劇作家だった時雨さんの目には斬新で、荒削りながら胸を打つものがあった。そのエネルギーに打たれた時にはもう、時雨さんは未だ見ぬこの作家に、本能的に惚れていたのではないだろうか。

(続く)

なかじま・もかこ
日本の小説家。1979年滋賀県生まれ。第四回新潮エンターテイメント大賞を受賞し(選考・江國香織氏)2009年処女作「蝶番」にて文壇デビュー。