第2回 長谷川時雨と三上於菟吉 太陽と太陽の結婚〈前編〉(「春光の下に」)

長谷川時雨(しぐれ)と三上於菟吉(おときち)の関係は「鴛鴦(おしどり)夫婦」または妻の時雨さんの献身として美しくまとめられてしまうことが多いが、ふたりを巡る激愛の日々はけして生ぬるいものではなかったという風に自分は強く感じている。

純文学を志す若き青年が、自費出版で刊行した1冊の本。業界の人たちに読んでもらいたいと思い手あたり次第に送ったが誰からも反応はなかった。文壇に拒絶され、彼はショックを受けた。けれど一通だけ「大変面白く読ませてもらいました」と返事をくれた人がいた。若い文学青年が初めて目にする巻紙の手紙。流れる水のように美しい筆。差出人の名前を見て彼は驚いた。今をときめく女流劇作家。誰もがその名と美しい美貌を噂にしている、そこには「長谷川時雨」と書かれていた。思いもよらぬ大御所からの返事に、いたく感激した青年は、佃島にある彼女の家を訪ねる。こうして始まったふたりの運命は、激しく絡まりあいながら、時に互いの心を深くえぐり、なのに強く結びつけられて、生涯離れることはなかった。三上於菟吉24歳、長谷川時雨36歳。無名の文学青年が書いた「春光の下に」という一冊の本が、ふたりを運命づけた。ふたりは実は婚姻はしていない。それには両家の事情があるのだが、そういった意味では別れることも容易い事実婚であったにも関わらず、彼らは生涯、夫婦を貫き通した。

『私も二十五の齢あたりに一しょになって十二違ひの齢上の老妻などと亡き直木と笑ったものだが、早いものでもう二十七年になる。私が不思議な心臓肥大で右手右足がきかないくせに、その私が彼女を自分の手で埋めるなどということは、今思うと妙な悲哀でもあるやうな気がする』(「読売新聞」昭和十六年八月二十四日夕刊掲載)

これは時雨さんが亡くなった時に三上於菟吉が書いたものだ。三上は、自分と長谷川時雨のことを「鬼の夫婦のようなもので」と、冗談めかして周りに言うことがあり、時雨さんが亡くなった時は自分の診察に来た医者に「先生、鬼婆が亡くなりました」と絶叫したという話もある。三年後、三上於菟吉も亡くなる。十二歳の年の差を考えると、追うように亡くなったように見える最期である。

実はこの原稿は、初稿を破り捨て、大幅な改稿の上に現在書き進めているところ。

初稿を送ったところ、編集長から「これではあまりに三上がわびしく悲しすぎる生き物のように思う。僕が男だからかもしれませんが」と返事があった。「なぜ三上がああなったのか。もう少し男の葛藤や悲哀も掘り下げてほしい」わたしは悩んだ。つまり、爆発的に売れてからの三上於菟吉の、それまで何年も支えた時雨さんへのある意味「仕打ち」と言える放蕩の数々。家に帰らず原稿はすべて「待合」と呼ばれる、仕出し付き簡易宿泊施設で書き、時にラブホテルの役目もつとめる「待合」で芸者をはべらせ、酒に溺れ、女に溺れ、袋町の愛人宅で倒れて半身不随になった三上於菟吉の生き様に対して、わたしが男性筆者であれば「時代の寵児らしく豪快で」などと寛容な書きかたもできるけれど、わたしには時雨さんを踏襲して生きているものとして「女の味方でありたい」ポリシーもある。「あれでなくっては三上は書けないのです」と周りには言った時雨さんのきっぷの良さが語り継がれているけれど、死後に出てきた日記には苦しい胸の内が綴られていた。彼女から女性としての尊厳を幾度となく奪った三上於菟吉の放蕩をわたしはどう扱えばいい? この夫婦の関係を「フェア」に描くにはどうすればいいか、わたしと編集長はやりとりを重ねた。わたしは自分がいつも長谷川時雨を通してしか彼を見ていなかったことに気づき、改めて三上於菟吉という作家を見つめ直した。そして気づいた。鬼の夫婦とは、どんな夫婦か。

鬼の夫婦、それはつまり常人ではないモンスターたちの婚姻。長谷川時雨というとんでもない芸術家と、純文学を辞め大衆小説に転じたのち、自らを「紙幣製造機」とあざ笑うほど売れに売れた大物作家。

三上於菟吉は当時、文藝春秋を起こす菊池寛に次いで長者番付2位。亡き友人を偲びその名をつけた直木賞の初代審査員も務めた。当時は純文学がすべてで、大衆小説を書いている人は三文文士などと呼ばれて馬鹿にされていたが、時代が彼らをスターダムに押し上げた。菊池寛の「真珠夫人」三上於菟吉の「雪之丞変化」などは、昼ドラや時代劇で今の人たちも知っていると思う。彼らが変えた時代の水流の麓に現在の「直木賞」がある。皆に受け入れられ楽しんでもらえる小説こそが大切なのだと、圧倒的な国民の支持をもって文壇に社会に知らしめ、邪道を王道に塗り替えた。

あまり知られていないが「放浪記」というタイトルを林芙美子の小説につけたのも三上於菟吉だった。長谷川時雨という人は「粋」が命で、野暮が大嫌い。だから「歌日記」と題された林芙美子の処女作を「女人芸術」に載せるか載せないか悩んでいた。彼女からするとすこし野暮な感じがしたから。「自分の趣味だけで偏らせず、こういうものも載せた方がいい」と強く勧めたのは三上於菟吉だった。時代の突端を走っていた三上さんは林芙美子の作品に新しい時代と才能の息吹を誰よりも早く敏感に感じたのだと思う。そして「放浪記」というタイトルをさらりとつけた。ほら、これで野暮じゃない。彼は自分の妻の性格、ひいては自分の妻がどういう芸術家であるかも熟知していた。外国文学に通じ作品の筆致にも作品にも華やかで垢抜けた、

風通しの良さがある三上さんのセンスが、まさに凝縮されて現れているネーミングだなあと思い私は感動する。

三上於菟吉、長谷川時雨、ふたりは時代を駆け巡り燃え盛るふたつの巨大な火の玉だった。情熱、才能、パワー、どれをとっても、互いに代りの効かない存在だった。

牛込赤城下町で始まった、ふたつの火の玉、文字通りふたつの魂の同居。それは太陽と太陽の結婚。

ちょうど100年前の今頃、時雨さんは鶴見からこの神楽坂に通い妻をしていた。矢来町に引越しをするとき、時雨さんは初めて、玄関の柱に貼る「三上於菟吉宅」という紙の„三上〝の隣に„長谷川時雨同居〝と、細い字で一行添えた。

ふたりはこの街で転居を繰り返しながら何年も一緒に住んだ。明日食う米にも困る若き書生たちの団欒の場として米や酒やらを人知れず買い足し、かの長谷川時雨が銭湯に通いながら於菟吉を支えた狭く日当たりの悪い赤城下町から、自宅に女人藝術の編集室を据えられるくらいの左内町の日々まで。一作売れるごとにはっぱをかけるように時雨さんはより高い部屋に引っ越しを決め、それに応えるように、三上さんは爆発的に売れていった。

惹かれあい愛しあい、ともに暮らし、融合と分裂を繰り返した規格外のふたりは、互いに大きな影響を与えあった。けれど同時に相手のエネルギーに焼き尽くされてしまいそうな時もあった。同じ部屋で暮らすことによって破綻してしまったゴッホとゴーギャンのように。

所信が強く、独立独歩で、経済的にも自立し、人に慕われ、文壇からの信頼も厚く、自分の原稿の穴までサラサラと埋めてくれる妻。自分が何かしてあげなくとも、いつも彼女はすっくと大地に立っている。 

そのことは、本来ならば愛する女性を大きく照らし、守ってあげたい三上於菟吉の、男気溢るる逞ましい、けれども不安定で繊細な胸を、空虚感と寂しさでいっぱいにすることもあった。抱きしめてあげる必要のない女に見えた。女を守ることができなければ男は男でないような時代だった。彼の男らしい両腕は守るべきものを見失い、次第に荒ぶる雷神と化してゆく。【続く】

なかじま・もかこ
日本の小説家。1979年滋賀県生まれ。第四回新潮エンターテイメント大賞を受賞し(選考・江國香織氏)2009年処女作「蝶番」にて文壇デビュー。