最終回 長谷川時雨とその人生 Personal ―彼女の場合―(赤坂檜町/「渡りきらぬ橋」)

「明治に一葉あり昭和に時雨ありと後の文学史は銘記しませう 女史の文化に寄与された多くのうちに『近代美人伝』の一著がありますが、いまおもふに 時雨さんその人こそこの書の巻頭にも描かれてよいおかたでした」

「時雨美人伝」も最終回となり、同時に「かぐらむら」も最終号となる。初回でわたしは功績や作品名の羅列だと指の隙間からこぼれてしまう「そういうことじゃない」部分を見据えていきたいと書いた。また、昭和に時雨ありと言われたほどの人が「なぜ忘れられたのか」についても書いていきたいと記した。毎回編集長と話し合いを重ね二人三脚で紡いできた本連載だが、今回も編集長のハッとさせられる一言があった。いきなり核心に迫るのであるが、わたしは、数多の資料で「忘れられた理由」の定説として挙げられている「時局奉仕の先頭に立ち行った晩年の“輝ク部隊"の活動などが軍部と密接に関わったとされたから」という説を個人的にナンセンスだと考えているのだが、そう言い捨ててしまうと編集長は「もう少し歴史を慎重に鑑みてほしい」と仰るのでは思い、その部分をどう扱うべきか悩んでいた。しかし編集長から返ってきた答えは「文学に対する戦争責任はあまり意識しないでいいと思います」という意外なもので、さらに言葉はこう続いていたのである。

「『なぜ長谷川時雨がわすれられたのか』それは戦争責任もあるかもしれませんが、やはり時代が必要としなくなったのではないかと思うのです。それは作品が、読者の心をとらえなかったからであり『古い』(誤解を恐れずにいいますが)と感じられたからでは、ないでしょうか?」

「女人藝術(にょにんげいじゅつ)」以降の、時雨さんの晩年についてざっと触れたい。まず長谷川時雨は身体の弱い人だった。「女人藝術」も最後の方は床に伏せりながら編集し印刷所へ入れるようなことが続いていた。加えて左傾による相次ぐ発禁や深刻な不況で売れ残りが続き、刊行から満4周年を迎えた昭和7年、病床の時雨の枕元に届いたのは刷り上がった雑誌ではなく差し押さえの通告だった。「5周年記念号」は幻となり「女人藝術」は廃刊となる。時雨は回復すると「輝ク」を創刊する。B5版二つ折り、わずか4ページの冊子だったが「『輝ク』は襦袢(じゅばん)の半襟のようなもの。小さくてもそれで決まってしまうんだからね」ということでサイズダウンした分、時雨の志向と目くばりの行き届いた誌面づくりを9年間通した。(「評伝・長谷川時雨」)「輝ク」のクがカタカナなのは時雨が平仮名の“く"が曲がっていて好きではなかったからで、この冊子も時雨のポケットマネーで賄われた。「輝ク」は時雨の死まで続き、その間に、長谷川時雨の代表作の一つと言われる「旧聞日本橋」が刊行となり、夫の三上於菟吉(おときち)が愛人の羽根田芙蓉(ふよう)宅で倒れて半身不随になり、戦争が始まった。時雨は直ちに「輝ク部隊」を結成し、慰問袋、遺家族見舞いなどを率先して行う。昭和16年、周囲の反対を押し切って、将兵慰問のため中国の海南島へ。これが時雨の身体に堪え、帰国後半年後、8月22日に肺炎をこじらせ永眠。61歳だった。最期の入院時、家の御簾(みす)を掴み「どこへ連れて行くの。いやだいやだ」と叫んだ。看取ったのは甥の仁で、最後の言葉は「書かなきゃならないものがあるんだ」「一葉のことだよ」

林芙美子は生前こう言っている。「作家は作品ですよ。作品だけが後世に残るのよ」ここで冒頭の編集長とのやりとりに戻ってくるのだが、小説家が綴る評伝というところに意味があるとするならば作品というものを作家の立場で語らせて欲しい。正直に言うとわたしは長谷川時雨という女性に心底惚れているが、その作品に惚れているわけではない。小説家である以上「物語」というものに妥協できない自分の“本能的な反応"がきっと「なぜ忘れられたか」という問いへの本質的な答えなのだと、本当は気づいていた。今の時代に例えると時雨さんは、劇作家としてデビューしたのち美貌もあいまって、テレビやエッセイなんかの仕事が主流になって、的確に時代を捉えるキャチーさなどから著名な文化人となりフェミニズムの方でも大きな功績を残した。けれど、日々のことに目まぐるしく、後世に残る「作品」を腰を据えて生む時間はなかったのだろう。大作を、突出した傑作を書かねばその名は世に遺らない。そしてそれに必要なものは、実は才能とか上手いとか美文というのとはまた違うのだ。必要なもの。それは、原稿に滴らせた血肉の分量。注ぎ込んだ魂の量。 後世に遺る、読み継がれる作品を書くために、作家はそれを書いている期間だけでもいい「すべてを置き去りに」しなくてはならない。極めて作品中心的な状態でないといけない。三上於菟吉が、林芙美子が、太宰治が、そうであったように。けれど彼女はいつも「誰か」の為に筆をとっていたのであって、「誰か」の為に奔走していたのであって「すべてを置き去りにして」自分の為に時間を使うことはなかった。

だからわたしは、長谷川時雨が残さなかったものよりも、彼女が遺したものについて筆をとりたい。形には残らなくても、彼女が次の時代を生きる人たちの為に遺したもの。彼女の場合。それが何かと問われたらそれは極めて“personal"な、目に見えない“絆"のようなものだとわたしは思う。苦しい生活を知って原稿料を前払いでくれたとか、地下活動に傾倒し投獄されても関わり続けてくれたとか、そういう個人的な逸話である。手紙の行き違いによってその自死を救えなかった知人青年を想い雑誌の刊行日を命日の17日にしていた時雨。耳の悪いお手伝いさんが聞き間違えてミスをした時、怒らずにその手をぎゅっと握って、2度とあなたが恥をかかないように、口の動きで会話が読めるようにしましょ、と一生懸命教えた時雨。家業を支え、若い書生の恋人を世に出すことと、甥を育てることに注力し、閉ざされた岩の中にいた当時の女性たちのために雑誌を作って口を持たせ、たくさんの女流作家を世に送り出し、最期、戦地の兵隊さんを慰問し体を壊して死んだ。彼女の人生とは作品のために書く人生ではなかったのである。誰かの為に筆を取る人生なのである。それこそわたしが時雨さんを追いかける理由である。わたしも授けられた筆を、作品のためではなく世界のために使いたい。それらはつまり「愛だけを遺す」人生の日々だ。中島みゆきの歌にこんなフレイズがある。“愛だけを残せ 壊れない愛を 激流のような時の中で" “愛だけを残せ 名さえも残さず 命の証しに 愛だけを残せ"

愛は記録に残らない。なぜなら極めて personal なものだから。でも本当はそれが一番、記録には残らなくても人間の心の奥を揺さぶり人の人生を変えていく。すなわち時代を変えていく。例えば、作家になるまでにわたしを支えてくれたスナックのママ、今支えてくれている銀座のママや神楽坂のお店のボス、無名のわたしに「長谷川時雨のことを書いてみるかい」と言ってくれた編集長。書き終わらない小説を待ち続けてくれている編集者。わたしを揺さぶり、わたしをわたしたらしめている、それら。最後に彼女の遺稿となった「渡りきらぬ橋」の終盤を引用します。

「あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような情熱をもって突き進んでいった。だが母の打撃は見て過ごされなかった。それに実家では、弟の若い嫁が、赤ん坊を残して死んだ。あたしの手にそれは受けなければ、残された子は死にそうなほど弱かった。それにもう一つ、三上は恋愛を申し入れてきかない。それに自分の方へ引っぱってしまおうとする。あたしは家庭婦として、あっちこっちに入り用になって、引きちぎるように用をおわされた。それを振りちぎったならば、今日、もすこしましな作を残しているであろうが、まず人の為になにかする。そうして、すべてを捨ててかえり見ぬこと幾年? 「女人芸術」に甦ってからの爾来(じらい)は、あまり生々しいから略すことにする。」

所信を持って突き進む人生も美しいが、誰かとの出会いに溢れ、それによって運命が変わっていく人生こそ、人生だとは言えまいか。幕を降ろせば後に塵一つなく、愛だけを残して。(最後の一文は編集長に捧げます。)

なかじま・もかこ
日本の小説家。1979年滋賀県生まれ。第四回新潮エンターテイメント大賞を受賞し(選考・江國香織氏)2009年処女作「蝶番」にて文壇デビュー。