第一回  我が母校、津久戸小学校への想い

私は助六の三代目の店主です。その私がなぜ神楽坂のまちづくりに興味を持つ様になったのかという事から話を始めたいと思います。

私の手元に今は亡き立壁正子さんが編集・発行人をされていた「ここは牛込、神楽坂」の第4号(平成7年5月発行)があります。この号の特集として「90周年おめでとう、津久戸小学校」が掲載されています。この特集に私の寄稿文「津久戸 春、想い出と共に」も載っています。以下でこの寄稿文の内容を紹介したいと思います。

平成3年秋、津久戸小学校の南側に隣接して高層ビル建設計画が発表されました。事業者側の説明でも冬至日の午後、このビルの影でプールばかりではなく、殆どの教室に日が当らなくなることがわかりました。この事を知って保護者の方々は一斉に反発しました。当時、私は津久戸小学校PTA会長を務めて最初の年でした。

津久戸小学校PTAは実行委員会を複数回開催し、東京都に対して建築紛争条例に基づく「あっせん」を要請する事を決議しました。平成4年3~5月にかけて3回の「あっせん」が東京都第二庁舎31階特別会議室で開催されました。この「あっせん」の2回目の話し合いに於いて、東京都の担当官から大幅な設計変更案が提示され、事業者側はこの案を了承しました。PTA側がこの設計変更案をどう取り扱うかは、臨時総会を開いて決定する事としました。そのPTA臨時総会では、これ程多くの出席者が有ったろうかと思うほど、多くの保護者が参加し、ほぼ満場一致で東京都の設計変更案を了承する事を決定しました。

平成4年5月13日、第3回目の「あっせん」が第二都庁舎31階特別会議室で開催されました。会議の始まる前の時間、私達は31階にある喫茶室に居ました。その日、5月の空は澄み渡っていました。遥か彼方に雪を頂いた富士がくっきりと聳えていました。あれから23年の歳月が流れましたが、いまでもあの時の富士の姿ははっきりと覚えています。

最後の「あっせん」の席上、私達は東京都の設計変更案を受諾する事を伝えました。

その後、新宿区教育委員会のH教育長さん、続いて津久戸小学校のO校長先生からお礼の言葉が述べられ、前後3回に亘る東京都の「あっせん」は終了しました。

O校長先生も含め、私達は津久戸小学校に戻りました。教室に入るとPTA実行委員会の多くのメンバーが拍手と、笑顔と、涙で私達を迎えてくれました。

私としても子供達の学校環境を何とか守る事が出来たのかなという安堵感と共に胸に熱いものが込み上げて来るのを感じました。人が作った建築物が他の人に影響を与える。プラスの影響もあれば、マイナスの影響もある。

そして建築物の集合体が「街並み」を形成する事になります。そうすると、「街並み」は更に多くの人々に影響するのではないかと考えました。23年前、私は新人のPTA会長として建築物の学校環境に与える影響について真剣に取り組む責任ある立場に居りました。

私の本業は履物、袋物等といった伝統工芸品を製造・販売する店の経営です。そして神楽坂には伝統芸能がいまも息づき、路地界隈の伝統的な街並みも残されており、そこを綺麗どころが歩いているという花街でもあります。

そんな神楽坂界隈の街並みの良さを未来に向かって継承していきたい、そのためにはいま私達に何が出来るのか、何をしなければならないのかを考えていく事が大切だと実感します。こう考えて、一介の履物屋の店主が神楽坂のまちづくりに足を踏み入れる事となりました。

いしい・ようきち

昭和23年12月生れ。昭和36年津久戸小卒業。麻布中・高校を経て、慶応義塾大学法学部法律学科卒業。家業『助六』の三代目。