第9回 紅葉、病に斃れる

紅葉は数年前から胃患を自覚し明治三十五年四月、大学病院で医師の診察を受けたものの、「高の知れた胃痙攣に過ぎない」と独合点(ひとりがってん)して不養生のまヽに過ごしてしまったと、自分で書いています。「金色夜叉」を書くなかで症状はいちだんと進み三十六年三月三日、検査のためとして再び病院の門をくぐった時は、弟子の小栗風葉と鏡花が同行しました。

入院七日後、病状の容易ならざることを告げられた紅葉の心痛と不安。察するにあまりありますが、彼は気丈にも同月十四日退院に至るまでの克明な「病骨録(びょうこうろく)」を遺しています。

胃に腫物を発し、しかもその病勢が近来にわかに増進し、軽視できないのは自分も承知している。しかし又、そのために死ぬことはないと信じていた。

医師は態度を改めて、「この病気の告知を如何にすべきかはまだ試験中のことだが、もしそれが悲しむべきものだったなら、貴方の望まれる処置はどんなことか」と質問した。

「(自分は)万一手術を要するならば、一旦退院し、空気の清い、静かな所に転地して、出来る限りの保養をし、とにもかくにもしばらく病と闘い、いよいよ破るゝと見て後、一刀を請う覚悟だ」と答えた。人は女々しいと思うかもしれないが、一家六人の主として、自分の命は自分のみの命にあらず。もし手術が効を奏せず、そのまヽ斃(たお)れることがあれば、妻と四人の子と老祖父も併せて斃れるのである。情として忍びざる所。決して命を惜しむのではないが、腹を剖くの危きよりも、余命をもって安きに就かんと思う、と。

すると医師は、こう応じた。「言われることはもっともだが、捨て置けば病勢は募るばかり。その結果は斃れるより外はない。ならば、十分とは行かぬまでも、七八分の活路ある手術を試みないという法はない。重大な手術であり、万全を期するとしても、あるいは死期を早める恐れ皆無とは言えない。故に死を賭して手術台に上る覚悟を持っていただきたい。しかし、空しく死に至るのを待つより、数等勝るであろう。医術の進歩した今日、十分精査の上、出来る限り慎重に施術するのであり、覚悟と信頼を持ってご決心ありたい。貴方のためにこれより道はない」と。

手術を避ければ、早晩死を免れず。手術台に上れば、命を賭さねばならず。

(以上要約)

このあと、紅葉は一人夕暮れの街へ出て葡萄酒を買い、古書店をのぞいたりして病院へ帰り、赤酒二盃に酔いを催し「何となく愉快を感じ」たという。「死の宣告」を受け、憂悶孤独のなかで紅葉は「決心を得た」と述べています。そして退院。彼は横寺町の自宅で療養生活に入り、しばらくは元気に東京座で「金色夜叉」を観劇したり、丸善へ出掛けたりしましたが、七月「今迄決して無かつた」激痛を発し、以後床を離れることはできませんでした。

十月三十日、「莫児比涅(モルヒネ)も利かで悲しき秋の夜や」を辞世に紅葉は逝去。享年三十七歳、胃癌による早すぎる死でした。十一月二日、葬儀の参列者は千人を越え、「葬列は長々と続いて居るが、高くかつがれた寝棺ではなく、文豪と謳われた人の亡がらを載せた一挺の駕籠が葬列の中にさりげなく護られていた」と、随筆家岩本素白は感慨を込め、しみじみと当時を振り返っています。

牛込横寺町から青山斎場へむかう葬列

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。