第8回「俺を棄てるか、婦を棄てるか」

神楽坂の桃太郎と親しくなって、鏡花の作品世界はさらに広がりを見せました。故郷石川の辰口温泉で伯母が置屋を営み、芸子だった従姉たちにも経済的に助けられた経験を持つ鏡花のこと。明治維新後の急激な社会変化を背景に、それは鏡花にとって全く無関係の世界ではなく、むしろ身につまされるほど、意に沿うた領域だったともいえましょう。

恋のためなら捨身にもなる花街の女の一途さと健気さは、鏡花自身が負う課題でもありました。小説の描写をそのまま事実と受け止めることはできないまでも、作者の原体験と作品の成立が微妙に影響し合うのはいうまでもありません。

桃太郎(すゞ)の生い立ちと境遇を反映した小説「湯島詣」が、華やかな花柳界の裏にひそむ人間の浮き沈みと悲嘆のさまを、鮮やかな筆致で描いて好評を博し、誓いと義理を最高理念とする鏡花ならではの愛の姿が、次第に読者の心に浸透してゆきました。

すず夫人(鏡花と知り合った頃か)

すゞと知り合って四年後、そんな二人に助け船が現われました。

「明治三十六年一月、牛込神楽町に引越す。すゞと同棲、その此をえたるは、竹馬の郷友吉田賢龍氏の厚誼なり。」と鏡花は書いています。吉田賢龍は明治三年金沢に生まれ、浄土真宗の僧侶から還俗。東京帝大卒業後、千葉中学校長、第三高等学校教授、広島高等師範学校長など広く教育界に足跡を残した人でした。「高野聖」のモデルともいわれます。

「吉田君は泉鏡花と同じ金沢の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた温厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現われてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出来事からであつた。」と、のちに柳田国男は若き日の想い出を記しています。

たゞ、周囲には鏡花とすゞの仲は公然たるものだったのに、なぜか師の紅葉だけには内緒だったのです。弟子の寺木氏によれば「(それは)唯、ひとへに師紅葉一人に対する遠慮にすぎなかつた」とのこと。鏡花にとって紅葉は、文学の師匠であるのは勿論、少年時代の惨めな放浪生活から自分を救ってくれた、文字通り、命の恩人。たとえカラスは白いと言われても反論できない鏡花の心情だったとしても無理はありません。

紅葉とて、やみくもに愛弟子の花柳界への出入りを禁じたのではなく、日頃鏡花の親代わりをもって任じ、世間への調和と通念に照らして、結婚相手には健全な家庭に育った女性をと望んだのも、自然な成り行きだったと推測されます。いずれにしても紅葉に知れるのは時間の問題でした。

結果、その紅葉に桃太郎との同棲を厳しく叱責され、やむなく別れざるを得なかった鏡花でした。一方、一年前から体の異常を自覚し、検査入院で初めて病名(胃癌)を知らされたばかりの紅葉にとって、神経の昂ぶりから過激な言葉にもなったのでしょう。

「婦系図」の中で、「俺を棄(す)てるか、婦を棄てるか」と迫る恩師酒井先生の言葉にたじろぐ早瀬主税。鏡花にとって、まさに正念場だったといえましょう。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。