第7回 弟子の目に映った「人・泉鏡花」

鏡花が牛込区南榎町へ引っ越した翌年の明治33年、一人の若者が鏡花を訪ねてきました。寺木定芳といい、仙台の中学を卒えて東京専門学校(後の早稲田大学)文科に入学したばかり、数え十八歳の学生でした。寺木本人の言によれば、「当時鏡花熱が、あらゆる学生層に浸潤していて、鏡花以外には何物も読むに耐えないとかたく信じ、この熱心が、遂に鏡花門下の一人になろうという野望」を持つに至ったのだという。何度も「南榎町の先生に手紙を差し上げ」るうち、鏡花から、学校の御帰りにでも御立ち寄りください、との葉書が届いたのでした。

「驚喜、雀躍、胸とゞろかして敢(あえ)て翌日と言はず、その日の内に参上した。知る人ぞ知る、当時の南榎町の御住居は、是が東京市内の牛込区内かと疑はるゝ、樹木鬱蒼(うっそう)野草蓬々、荒れに荒れて昼猶(なお)暗き凄い位の淋しい所だった。(略)初対面の先生は其の後御亡くなりになるまで然うだつたが、お若い時分は更に控え目で所謂(いわゆる)シャイで、当時すでに一世の天才として、世に響いていた偉さなどは、爪の先にも御見せにならなかつた、まだ二十前の自分に対しても丁度友達に対するそれで、いつでも遊びに来たまへ、書いた物があるなら見せたまへ、と膝をくずしての心安さだつた。(後略)」

と、のちに初対面の印象を述べています。言ってみれば、金持ちの坊ちゃんが押し掛け弟子となり、「頼まれもしないのに玄関番を任じ」たのは、師匠の鏡花が紅葉の玄関番として入門した、その顰(ひそ)みに倣(なら)ったというわけです。鏡花と寺木定芳が具体的にどういう師弟関係だったかはよく分かりませんが、彼が日々学校の帰りに鏡花宅を訪ね、鏡花夫妻からは「坊や」と呼ばれて可愛がられたといいます。

十代の寺木定芳氏

寺木は鏡花のお供をして初めて紅葉に会ったとき、

「自分は座敷の中で座布団こそ敷かないが、膝こそ崩さないが、正面を切って(紅葉先生と)対座していた。が先生は一間を後に敷居を隔てゝ、両手を膝にうつむいて始終正座して居られたので、自分はびっくりした」

と、現代人には想像もつかない、紅葉と鏡花両者の師弟関係の厳格さに驚いたとのこと。

が、そういう鏡花の師に対する誠実を、紅葉ほどの人が解らぬはずはありません。寺木はこうも述べています。

「其の後時々御目にかゝつたある時、先生のゐない時、紅葉先生は自分に向かつて《僕の門下で御馬前で死なうといふのは、君の師匠の鏡花だけだよ、外は駄目さ》と言はれたことがある。」

鏡花が神楽坂芸者・桃太郎(本名伊藤すゞ。明治十四年九月生まれ)と親しくなり、そのことが、神楽坂に近い南榎町への転居となったとは前号で申し上げましたが、早くに父母と死別したすゞの境涯を、小説家の鏡花が敏感に受け止めないはずはなかったでしょう。何事も正面から向き合い誠意を尽くした鏡花の、その後、師と恋人を前にしての苦悩を弟子の立場で最も身近に接することになったのが、この寺木氏でした。

彼はのちに鏡花から小説家として立つのは無理と諭され、渡米し歯科医となって帰国。終生、鏡花夫妻の間近で何かと世話役を果たしたのでした。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。