第6回 春の夜の鐘うなりけり九人力 ―牛込南榎町・鏡花の家で―

「汝の脳は金剛石(ダイヤモンド)なり」と、鏡花の非凡な才能を誰よりも早く認めた師の尾崎紅葉でした。鏡花のごく初期の作品で、あまりにも怪奇な作風と、未完であったためか、紅葉が版元への紹介を若干ためらったと想像される「蛇くひ(原題「両頭蛇」)」という短編があります。

北陸富山の、ある町に出没する乞食の集団が、《応》の呼び声を合図に金持ちから米銭をねだり、出さぬと辺りに蛇を喰い散らして去るという、変わった作風と描写に鏡花の特異な資質がうかがえます。この作品に対し、紅葉は次のような評言を残しています。

「立案凡ならず、文章また老手のごとし、小蛇すでに龍気の顕然たるものあるに似たり。予数年諸子の小説を閲す、未だ曾て如期きを見ず。子はそれ我が掌中の珠か、乞ふ自重せよ」

紅葉にとって、愛弟子の鏡花はまさに「我が掌中(しゃちゅう)の珠(たま)」だったことでしょう。

いまや流行作家となった鏡花が、三年余りを過ごした小石川大塚町の長屋から、神楽坂に程近い牛込南榎町二十二番地に引っ越したのは、明治三十二年秋のことでした。八十歳の祖母きてと、妹他賀、弟豊春も一緒です。豊春は二十一歳になり、紅葉門下として師が名付けた「泉斜汀(いずみしゃてい)」の名で小説を発表するまでになっていました。

前号でふれましたが、同年一月、神楽坂の「桃太郎」(本名・伊藤すゞ。明治一四年九月生まれ)と知り合い、奇しくも亡母と同じすゞの名が鏡花の心をとらえました。桃太郎と急速に親しくなったことが、鏡花と神楽坂の縁をさらに深くし、南榎町への転居となったのは言うまでもありません。

この家の表札「泉鏡太郎」は、紅葉が書き贈ってくれました。鬱蒼たる樹木に囲まれた二階家で、一階は二畳、五畳、六畳の三間。二階は四畳半(六畳とも)一間という間取りだったそうです。

南榎町は紅葉の住む横寺町からもそんなに遠くはなく、紅葉も来客を避けて時折鏡花を訪ね、「金色夜叉」の原稿執筆に一日を過ごすこともあったといいます。鏡花の書斎だった二階の部屋に人を集め、紅葉主催の句会もよく開かれました。

明治三十三年四月、紅葉が会の興おもむくまヽに壁に墨書した一句は「春の夜の鐘うなりけり九人力」。後に鏡花が借家の壁を削ることもならずと残念がったという、ほゝえましいエピソードが伝わっています。それにしても、あまり広くもない部屋に男九人が坐しての句会の盛り上がり、「うなりけり」という語の迫力がジーンと心に響いてくるようです。

句会の主なメンバーは、鏡花、斜汀のほか、生田葵山、太田南岳、鈴木苔花、谷活東、田村西男、徳田秋声、星野麦人ら。鏡花宅へは、伊原青々園(敏郎)、松本長、柳川春葉らも訪れています。鏡花はこの時期、一代の名作「高野聖(こうやひじり)」を書きあげました。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。