第5回 鏡花、神楽坂の「桃太郎」に出会う

明治二十七(一八九四)年九月、気丈な祖母に励まされ、八ヶ月にわたった故郷滞在を切り上げた鏡花は東京にもどってきました。そして翌二十八年、雑誌『文芸倶楽部』に「夜行巡査」「外科室」を発表し、日清戦争後の世相を反映した作風が、川上眉山―硯友社の副将と定評された―らの諸作とともに観念小説の名で称讃され、幸運にも鏡花は新進作家として世に認められたのでした。

明治の言論界を代表する反骨の思想家で、早くから鏡花に注目していた田岡嶺雲はこう述べています。

「鏡花の今日の地歩をなさしめたるは実に紅葉の効なり。鏡花は実に一個の天品たるに相違なし。然れども紅葉なくんばかくまで早く我文壇に名を成すを得たりや。疑ふべし」

鏡花は同二十九年六月、小石川区大塚の長屋に、郷里の祖母と弟豊春を呼びよせ、家族で初めてささやかな所帯を持つことができました。このとき鏡花は満二十二歳。その後も家長としての責任感をバネに「照葉狂言」「化鳥」「高野聖」など話題作を次々と発表、雅俗折衷の幻想世界が読者を魅了し、鏡花は大成を予期される若手作家に成長してゆきました。

師の紅葉も、明治二十九年二月から十二月にかけて「多情多恨」を読売新聞に連載。妻を亡くした主人公が親友の細君の誠実さに触れ次第に心惹かれてゆくという、人情の機微と言文一致の巧みな文体で大衆の心をつかみ、文壇の大家として気を吐きました。

紅葉は勢いをそのまま引継ぐ形で翌三十年一月からは、同紙に「金色夜叉」の連載を開始し、世上の人気に応えて連載は「続」「続々」と五年以上におよび、ついに紅葉自身の死によって未完の代表作となったのでした。金銭にまさる愛というテーマを謳いあげたこの「金色夜叉」が、舞台や映画、歌謡などを通して、主人公・貫一、お宮の名とともに一世を風靡したのは周知のとおりです。

鏡花の自筆年譜に「明治三十二年一月、伊藤すゞと相識る。」と記されている、のちのすゞ夫人との出会いは、まさにこの頃であろうと思われます。硯友社同門との会食の席でのこと。目の前にいる、数え十八歳、駆け出しの神楽坂芸者「桃太郎」の本名が、偶然にも亡母と同じ「すゞ」だと知った鏡花の驚きは、いかばかりだったでしょう。

それまでの神楽坂と鏡花を結ぶ絆は、桃太郎との出会いによって、鏡花の心にいちだんと強い地縁となって互いを引き寄せたことは想像に難くないところです。

先達て、本誌『かぐらむら』編集長・長岡弘志氏に「赤城神社」を案内していただいたとき、鏡花の「婦系図」ゆかりの神社境内は実はこちらなのだと教えていただき、白梅の花も床しい辺りの風情に、なるほどと大いに共感した次第。湯島境内にまさるとも劣らぬ赤城神社境内のここかしこに、お蔦・主税の心意気を重ねて、たのしいひとときとなりました。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。