第4回 「汝の脳は金剛石なり」

入門翌年の明治二十五年十月、鏡花の第一作「冠弥左衛門」が、紅葉の推薦で京都『日出新聞』に連載の運びとなりました。江戸時代の農民一揆に取材した波乱万丈の物語ですが、読者には不評で、掲載中止の意向が度々仲介者の紅葉に伝えられたといいます。しかし紅葉は愛弟子をかばい、粘り強い折衝を重ねて完結にこぎつけたのでした。鏡花は後年、「少年の弟子の出端を折られむをあはれみて、その〈完〉を得さしめらる。此のよし後に知る処、偏に先生の大慈なり。」と自筆年譜(昭和三年作成)に特記し、亡き師の温情に感謝しています。

玄関番時代の鏡花は、このほか「活人形」「金時計」「大和心」「予備兵」「義血俠血」(外題「滝の白糸」)などを次々と発表。いずれも紅葉の並々ならぬ指導添削の跡が見え、比類のない鏡花文章の成立過程をしのぶことができます。

また紅葉は鏡花たちをつれて、神楽坂にあった寄席へよく落語を聞きに出かけたといいます。歯切れよく、人情豊かで、即興性にすぐれた落語が、執筆の疲れをいやすのはもちろん、知らず知らず身に付く言葉の生きた勉強になったのでしょう。神楽坂には寄席や演芸場がよく似合います。

しかし一方で、この時期が鏡花にとって、私生活上最も苦難の時期でもありました。明治二十五年十一月、故郷金沢に大火あり生家全焼。その後ようやく成った家屋再建の喜びもつかの間、二十七年一月には大黒柱の父(彫金師)が病を得て他界するという、最大の不幸に見舞われたのでした。急ぎ帰郷した二十歳の鏡花には、祖母と弟を抱え一家生計の目途が立たず、絶望と自殺の誘惑に駆られ城の濠端に立ったことは、生涯の苦衷、後の語り草ともなりました。

この時、どん底の鏡花を救ったのが、ほかならぬ紅葉先生です。鏡花から届いた原稿の中に自殺願望の気配を読み取った紅葉が手紙で鏡花を叱咤激励し、奮起せしめたのでした。

「苟も大詩人たるものはその脳金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢えをや。汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は天下の至宝を蔵むるものなり。天下の至宝を蔵むるもの是豈天下の大富人ならずや。(略)近来は費用つゞきで小生も困難なれど別紙為替の通り金三円だけ貸すべし 倦ず撓まず勉強して早く一人前になるやう心懸くべし」

(紅葉書簡。明治27・5・9付)

と。

鏡花の前に大きく立たちはだかった経済(かね)の問題。なにも一人鏡花に限らないのですが、作家の生活的自立と芸術性の両立には、つねに厳しい課題が横たわっていたと言っても過言ではありません。文士といえば貧乏人と同義だったその頃、読売新聞の社員として曲がりなりにも定収入を得ていた紅葉が、後輩たちの面倒をみた意義は、硯友社のみならず文学界全体にとっても、大きかったと思われます。

紅葉が鏡花への手紙に書いた「勉強して早く一人前になるように」の言葉も、若い弟子への励ましであると同時に、自身をも含めた文士の社会的地位の向上に、つねに努力怠ってならぬという、自戒の語のように思えてなりません。

まさに、紅葉なくして作家泉鏡花は生まれ得なかった、の思い新たです。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。