第10回 なつかしい「神楽坂の唄」 ―鏡花の尽きぬ愛着―

この連載も、いよいよ最終回となりました。

思えば『かぐらむら』とのご縁は、ささやかな偶然から始まりました。平成二十七年の暮れ、鏡花の旧居跡を探して神楽坂のまちをウロウロしていた私に、たまたまお店の前にいらした老舗「助六」の若奥様が道を教えてくださり、「ちょっと待って」とお店に駆け込んで周辺の絵地図まで渡して下さいました。お蔭様で帰りの新幹線発車まで、有効に神楽坂散策をたのしむことができたのは、言うまでもありません。

後日「助六(すけろく)」石井要吉社長から丁寧なお便りをいただき、寺田弘様、長岡弘志編集長へと温かい輪が広がっていき、古きよき時代の面影と、新しい活力が融合する現代の街、神楽坂の豊かな表情に強く引かれるものがありました。これも紅葉や鏡花ら、多くの文人ゆかりの地ならではの伝統が息づいているからでしょう。彼らが往き来した百二十年前にタイムスリップしたような心地で、何度も歩いてみたい、なつかしい街です。

鏡花にとって神楽坂は、上京後一年間の放浪生活を経て明治二十四年秋、数え十八歳で初めて横寺町の紅葉先生を訪ねて以来、大都会の中でホッと心安らいだ、最初の空間だったことでしょう。江戸っ子紅葉の下で学び、成人して桃太郎(のちのすゞ夫人)と出会い、長年母代わりとなって兄弟を支えてくれた祖母を見送ったのも、この神楽坂でのこと。「神楽坂」こそ、出会いと別れの織りなす人生の学校。文字通り、想い出の詰まった第二のふるさとであり、刺激に満ちた青春の原点にほかなりません。

一世を風靡した明治文壇の雄・尾崎紅葉が他界し、賛否こもごも伝統的体質を守った硯友社の勢いは、その後急速に衰退してゆかざるをえませんでした。文学の主流は自然主義にとって代わられ、古い戯作者と目された鏡花の不遇な数年間が指摘されております。それは師を失った深い悲しみの中にも、鏡花がいっそう気を引き締めねばならない時期ともなりました。

そんな中、鏡花に手を差し伸べてくれた夏目漱石や永井荷風をはじめ、里見弴、水上瀧太郎、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、久保田万太郎、長谷川時雨、画家の鏑木清方、小村雪岱、鰭崎英萌ら若い世代も熱心に鏡花を支持し、そのかぎりでも鏡花は幸せでした。

やがて「自然主義作家には不可能な奇跡のような鏡花の文章」(田岡嶺雲評)と絶賛され、一時的風潮に惑わされない自らの文学境地を再確認したのでした。

師紅葉譲りの華麗な文体と、鏡花自身が持つ反骨侠気、幻想のロマンチシズムが、やがてユニークな「鏡花世界」の名とともに、映画やお芝居、絵画アートの世界にと深く浸透し、現代も大きな魅力を発信し続けているのは、御存じの通りです。

最後に鏡花の愛着がにじむ「神楽坂の唄」(一部分)を再現して連載を終わりたいと思います。

一里(ひとさと)は、神楽(かぐら)に明けて、神楽坂(かぐらざか)。

桃(もも)と桜(さくら)が名(な)を並(なら)べ、

江戸川(えどがわ)近(ちか)き春(はる)の水(みず)、山吹(やまぶき)の里(さと)遠からず。

あはぬ瞼(まぶた)に見(み)る夢(ゆめ)は、

いつも逢坂(あうさか)、軽子坂(かるこざか)、重荷(おもに)も嬉(うれ)し肴町(さかなまち)。

色(いろ)に露(つゆ)添(そ)ふ御縁日(ごえんにち)。

毘沙門様(びしゃもんさま)は守(まも)り神(がみ)。毘沙門様(びしゃもんさま)は守(まも)り神(がみ)。

比翼(ひよく)の紋(もん)こそ嬉(うれ)しけれ。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。