第二回 横寺町―「何から何まで教えられた」鏡花文学の基礎づくり―

 

「いにし年、はじめて積年の望みをゆるされて、机を横寺町の玄関に据えたりし夜、灯下に坐して暗涙襟を伝ふを覚えず、喜び極まりて泣きたるなり、時に一客あり、戸を排して入る、御免と、(略)」

 

明治二十四年(一八九一)十月十九日、牛込・横寺町の紅葉宅を初めて訪ね、翌日から玄関番として住み込んだ鏡花は、その夜のことをこう振り返っています。

来客があり、鏡花にとって取次第一号となったその客は、原抱一庵といい、当時「闇中政治家」という社会派小説で好評を得ていた新進作家で、履物を揃えながら鏡花はまぶしい思いで彼を見つめたことでしょう。後年、抱一庵の著書『聖人乎盗賊乎』に師の紅葉と並んで「序」を寄せた鏡花ですが、この初対面の夜のことに触れ、「爾来君の作に接する毎に(略)無量の感なき能はず」と心中を述べています。

 

徒弟制度さながらの、厳格にして情味ある師紅葉の薫陶の下、横寺町での約四年間が鏡花にとって「何から何まで教えられた」基礎修養期間となったのは言うまでもありません。

 

鏡花の日常は、客の取次ぎ、掃除のほか、紅葉の運動がてらの薪割りやタコ揚げ、弓を引くなど遊びの手伝い、かたわら原稿の清書や口述筆記と、「なかなか暢気に遊ぶ暇などなかったが、私の為にはそれがよかった」。鏡花ならではの師への絶対的信頼がしのばれます。

 

一方で「其の頃私は妙に自分の物が書けなくなって了った。先生の内へ上るまでは、もう直ぐ作者にでもなれる気でいたが、先生の許に参じて、眼が段々開いて来ると何だか怖気がついて、気ぬけがしたようで、些とも筆が立たな」くなり、今までは怖い物知らずでやって居たことを身に染みて感じたと、プロの洗礼を吐露した鏡花でもありました。

 
「尾崎紅葉」

そんな鏡花を受け入れた紅葉は同年春に結婚したばかりの二十四歳。東京大学予備門在学中から文名を上げ、川上眉山や巌谷小波らと文芸結社・硯友社を結成して、雑誌『我楽多文庫』を発行。当時早くも文壇の第一人者と目された紅葉は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」(硯友社・江見水蔭の尾崎紅葉評)の方針で、このあとも多くの門弟を引受けました。紅葉自身は「元来小説に師と云うものは無い。現に自分がそうである以上、人に先生を強いるのは筋違い」(小説「青葡萄」)と考えていたものの、しかし入門させた以上は、自分なりの方法で仕込んでやろうという、人情家らしい徹底ぶりで、日本文学史上でもめずらしいこの師弟関係は是と非ともに、興味深いエピソードに事欠きませんでした。

 

 「お小言は随分厳しい方でした。馴れないものは余り厳し過ぎはしないかと思う位だったでしょう。が、実際御自分が一旦お引受けになった以上は何処までも其の人間を一人前に仕立てて遣ろう、ものにならないならたとい焼芋屋、おでん屋であろうと店を持たせて喰う道だけは授けてやろう、という親分気質ですから、厳重な監督と其のお小言が必要だった訳なのでしょう。」(鏡花談話「焼芋屋をさせても」より) 

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。