第三回 あら玉の春着きつれて酔ひつれて

尾崎紅葉が多くの門弟を持ったことは先述の通りですが、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の紅葉のこと。出入りした弟子たちの正確な数はつかめないものの、明治三十六年十月に紅葉が亡くなった時の鏡花弔辞に「門生十九人に代わり」とあるところから、おおよその推定が可能です。

なかでも泉鏡花、柳川春葉、小栗風葉、徳田秋声が、のちに「牛門の四天王」と呼ばれた、紅葉門下の代表的存在で、公私にわたって紅葉の謦咳に浴した四人でもありました。

泉鏡花

年の暮れが近づくと横寺町の二階に「襟垢、膝ぬけ」という形の弟子たちが集まってきて、

「先生、小ざっぱりとまゐりませんでも、せめて縞柄のわかりますのを、新年は一枚と存じます……恐れ入りますが、お帳面を。」と一同、かしこまっての陳情ならぬ直談判。

「また浜野屋か。」その頃神楽坂にあった呉服屋さんで、でっぷりと肥ってにこにこしていたので、布袋さんと呼ばれていたその店のご主人が、獅子寺の大弓場で先生と懇意だから、弟子たちに帳面が利いたのだという。ただし、信用がないので直接ではなく、紅葉先生を通してそれができた、と鏡花は打ち明けています。

先生は「いっしょに来な」と言い、通りへ出て浜野屋で、めい〳〵に似合うのを見立てて下さったとのこと。

その春着で、四人揃って元日の神楽坂通りを、はしゃいで歩いた青春のひとこま ――。

割前勘定。すなわち蕎麦屋だ。と言っても、松の内だ。もりにかけとは限らない。たとへば、小栗があたり芋をすゝり、柳川がはしらをつまみ、徳田があんかけを食べる。お酌なきが故に、敢て世間は怨まない。が、各々その懐中に対して、憤懣不平勃々たるものがある。従って気焔が夥しい。此のありさまを、高い二階から先生が、

あら玉の春着きつれて酔ひつれて

涙ぐましいまで、可懐い。(小品「春着」より)

財布の中身が寂しいのはお互い様とばかり、怪気炎をあげて塾へ引き上げる彼らを、二階から眺めている紅葉の姿が目に浮かぶようです。子供たちが成長し手狭となった自宅の隣に、新たに一軒を借り、弟子たちのため「十千萬堂塾」を設けた紅葉ですが、本人の暮らし向きは、世間の名声に比しても決して贅沢なものではありませんでした。ちなみに十千萬堂は紅葉の俳号の一つです。

文中にあるこの蕎麦屋は、鏡花の「神楽坂七不思議」の中に「藪蕎麦の青天井」と書かれ、夏の書入れ時は戸外に蓆を敷いて客を招じていたのが、やがて鳥屋の「川鉄」へと面目一新しました。この店に名物の額があり、横に「勤倹」の二文字が大書され、「彦左衛門」として「大久保」という朱印があった由。「いかものも、あのくらゐに成ると珍物だよ。」と言って、紅葉先生はその額が御贔屓だった、と鏡花の想い出話。

「その時分、先生は御質素なものであった。」と述懐していますが、文筆一本の処世は、後年の鏡花にもその心掛けが引き継がれ、「此の段は、勤倹と題して、〈大久保〉の印を捺しても可い」とは鏡花の言です。

こばやし・ひろこ

一九四一年金沢生まれ。機械メーカー総務部、私立大学広報課勤務を経て能楽小報発行の傍ら、金沢ゆかりの作品に親しむ。『泉鏡花―逝きし人の面影に』(金沢市民文学賞受賞)、『室生犀星と表棹影』『加賀宝生 花の舞』など。日本ペンクラブ会員。