第22回 かぐらむら私史 101冊目のご挨拶

本『かぐらむら』が次号100号で終刊を迎えます。今回は、この十年余の長距離走を見てきた1人として、その歴史を私的にふりかえってみます。

「0号」に至るまで

「創刊号」に先立って、蛇腹折り赤い表紙の「0号」(2・3月号)が生まれたのは、平成14(2002)年に入ってまもなくのことでした。その0号を手に、N編集長に抱負や課題を聞いたのが、私と「かぐらむら」との関わりのはじめです。人よりも長めの学生時代をおくっていた頃で、研究テーマとして「タウン誌」を模索していました。実は、それもまた神楽坂がはじまりです。

本欄でも紹介しましたが『ここは牛込、神楽坂』というタウン誌があり、神楽坂歩きを楽しみはじめた私は、刊行を楽しみにしている一人でした。同じくN編集長も「嫉妬するぐらい」読む愛読者でした。最初に買ったのは「漱石と神楽坂」の号です。編集長の立壁正子さんからは、投稿へのお返事をいただいたこともあります。それが2001年3月6日の「読売新聞」(都内版)にて、立壁さんが亡くなられたことと、ほぼ同時に刊行された18号をもって休刊となることを知りました。この時の喪失感は自身でも意外なほどでした。

他の地域でも老舗ともいえるタウン誌の休刊を見聞きするにつけ、タウン誌を学問的にきちんととらえる必要を感じるようになりました。一方、同時期の神楽坂では超高層マンションの建設計画にゆれており、その活動にもかかわるようになりました。その中で、本誌創刊を知り、N編集長へのインタビューに至ったのです。

その時にどのような話を聞いたかはさておき、「タウン誌を都市の生き物としてその生き死にを含めてとらえたい云々……」とふれたこともあってか、「創刊したばかりなのに寿命の話か」と後でN編集長に突っ込まれました。

地図をめぐって

2号の準備からスタッフとしてかかわるようにもなりました。0号では「取材編集スタッフ募集中」と掲載していましたので、数名のスタッフで編集会議も開かれました。女性比率、在住より在勤率が高かったようにおぼえています。夕方から夜までの会議のあとの帰り道が、高校生の頃の課外活動の後のような感じがしました。

私が最初に取材したのは、その頃ラムラに出店したばかりだった「ひば工房」さんです。同じく2号には、神楽坂地区まちづくりの会開催「青空マップ展」のレポートも書きましたが、こちらは超高層マンション建設をめぐる問題の延長です。賛否以前に「考える場やきっかけをつくろう」ということで、神楽坂に関わる古地図から写真まで掲示したイベントでした。その中で様々な地図を集めたこともあってか、初期の「かぐらむら」の記事でお気に入りだったのは「アイコンマップ」でした。

「2002 梅雨と夏のマップ」

例えば「2002梅雨と夏のマップ」と題し、カレー屋や風鈴や傘が入手できるお店などのスポットを見開き2頁の地図上にアイコンで示すものです。会議では何をどう組み合わせるかで議論が堂々巡りになったことも少なくなかったのですが、出来上がってみるとカラフルで見た目にも楽しいものでした。「地図にポストを」と主張し、さっそく3号で取り入れてもらいました。郵政に特に思い入れはないのですが、街中の赤いポストは今でも気になる存在です。あらためて確認すると11号が最後と、意外に短命なコーナーでしたが、2005年10月には「神楽坂アイコンマップ」として商品化もされました(その後に改訂もされ、現在でも文悠さんなどで購入できます)。

絵地図はその後も時折登場しますが、17号には片面全面を使って「神楽坂縁起双六」を掲載しています。編集会議のときはラフ案で実際にゲームしてみましたが、実はなかなか「あがり」が出なかったのは秘密です。小さくとも広げて大きく見られるという蛇腹折りの特性を活かした特集は印象深く、18号の特集「包む紙」ではスタッフで分担してお店の包装紙や紙バッグを集め、なかなかにぎやかなものになっています。

様々なイベント:タウン誌カフェ

「かぐらむら」では、地域内で開催されるイベントの紹介だけではなく、様々なイベントに関わってもいました。N編集長が中心になっていたものだけでも、最近の絵本パークレットから、芸術座、投扇興、ぽちぶくろ展などなど。創刊の2002年秋には、芸術の表現を通して平和へのメッセージを発する「ピースアート」が大々的に開催されました(9月29日)。同時期の「まち飛びフェスタ」の紹介と合わせて「かぐらむら 臨時特別号」も刊行されていますが、91号掲載の「一覧」には漏れてしまっていた幻の5冊目の「かぐらむら」です。

2011年の東日本大震災後に構想、開催されたのが「タウン誌カフェ」イベントです(11月15~20日)。全国各地のタウン誌を展示紹介する企画ですが、そのきっかけは岩手県宮古市の「月刊みやこわが町」が被災しながらも刊行を続けたのを知ったことです。私がタウン誌研究をはじめたとき、その道の大先輩である田村紀雄先生(東京経済大学名誉教授)に調べておくことを強く推薦された老舗誌です。昭和52年の創刊、創業者から引き継いだ二人の編集者が発行を続けています。2005年の夏には宮古まで取材にも行きました。タウン誌カフェイベントの開催前にはN編集長と宮古までうかがいました。まだまだ仮設住宅が見られましたが、その中でも刊行を続けられ、災害FMなども手がけられていました。

「タウン誌カフェ」チラシ

このイベントのチラシなどでN編集長が考え出したコピーは「タウン誌という名の不思議な街案内人」と「今年、コミュニケーションは変わりましたか?」です。

全国各地のタウン誌発行者に提供を呼びかけ、当日は全国各地の相当数のタウン誌を展示をすることができました。東北のみならず災害を取り上げたタウン誌が少なくなかったです。最終日には「タウン誌ウォッチング40年」と題し、田村先生のお話を聞く会をもうけました。タウン誌好きが集まった貴重で不思議な時間になりました(開催報告は59号掲載)。様々なタウン誌を見たことが刺激になったのか、61号には「かぐらむら」が冊子化。一気に大きくなり情報量も読み物も増えました。タウン誌カフェもイベントから連載として、この中に入ることになった次第です。

パルスギャラリーで田村先生を囲んで

タウン誌というバトン

N編集長とほぼ同時期に、『神楽坂まちの手帖』(2003年創刊)を構想していたH編集長にもインタビューをしていました。出版社の元編集者とう経歴の方ですが、駆け出しのころは、タウン誌・ミニコミブームの時期と重なり、先輩から「読め」と言われたという話が印象的でした。

その後も神楽坂関連地域でのタウン誌が新創刊されるばかりではなく、全国的に見ても様々な動きが見られるようになりました。私も㆒サラリーマンになっても、そうした雑誌を見続けてきました。意識しているのかはわかりませんが、いろんなところでバトンが受け渡されているようです。

読み手も作り手も楽しんでこそのタウン誌です。ぜひこれからも各地のタウン誌を楽しんでください。

高橋正樹
『かぐらむら』編集室