茨木のり子 はたちが敗戦

わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで わたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った

これは詩人茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』の一フレーズだ。国語の教科書にのったこともあり、多くの人に知られた詩ともいえる。

20代の茨木のり子

茨木は大正十五年六月に、愛知県幡豆郡吉良町に生まれ、本名は宮崎のり子。父親は医師、本人も現東邦大学薬学部の出身。医師の三浦安信と結婚し、住まいを所沢、神楽坂、池袋と借家生活をした後、東伏見にマイホームを持った。

この詩は神楽坂に来る前年の昭和三十年に作られたもので、不幸な時代を生きた青春の、それこそ痛ましい詩だ。

戦前の日本が太平洋戦争に突入した年、彼女は愛知県の西尾女学校三年生だった。軍国主義教育一色にぬり込められた学校では、校服はモンペで将校の指導で分列行進の訓練がはじまっており、全校生の中から彼女が中隊長に選ばれて指揮をとった。

“かしらァ‥‥右ィ かしらァ‥‥左ィ 分列前へ進め”

茨木は裂帛の気合いを込めて、全校四百人を動かした。

そのため声をつぶし、「あなたはあれで声をすっかりダメにしちゃって」と、あわれみとも軽蔑ともつかない表情で音楽の先生に言われたと、『はたちが終戦』というエッセイに書いている。

皇国少女だった彼女は、だからこそ敗戦以降のわが身を厳しく反省し、戦後日本がまたもや愚かな道をたどりはじめたことに反発した。この『一番きれいだったとき』の詩も、

わたしはとてもふしあわせ わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった

と、続くのだ。

昭和三十一年から二年間、白銀公園の斜め前の一軒家に住んだ(今はグレーのマンションが建っている)。近所の神楽坂六丁目の裏通りにある鮓屋「大〆」は古くからのなじみの店で、晩年までもそこで編集者とよく落ち合い、詩としては驚異的な売り上げをしめした『倚りかからず』を生みだした。

もはや できあいの思想には倚りかかりたくない

じぶんの二本足のみでたっていてなに不都合のことやある

倚りかかるとすれば それは椅子の背もたれだけ

平成十一年につくられたこの詩は、朝日新聞の天声人語にもとりあげられ、そのあと押しもあって詩集としては異例の十数万部が印刷された。

彼女は価値観が一転した戦後社会のなかにあって、普通の言葉でまっすぐに自分の感情を表現した。やさしい人柄であったが凛とした美しい風貌をもち、終始背筋をぴんと伸ばし、自分を律することに厳しかった。だから彼女の詩は彼女の人柄そのものとも言われた。

夫に四十八歳の時死に別れ、以降一人だった彼女は、長い間女性の編集者たちと、「大〆」で集まることを好んだ。

「昨日は本当に楽しかった。私ね、神楽坂に住んだ頃が一番幸せだったといったでしょう‥‥」、と電話で編集者に話してから二日後に、七十九歳の生涯を終えた、と評伝『清冽』には記されている。平成十八年二月のことだった。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。