第8回 野坂昭如 はじらいと無頼

「横になって人形を抱き、うとうとと寝入る節子をながめ、指切って血イのましたらどないや、いや指一本くらいならのうてもかまへん、指の肉食べさしたろうか――」

これは昭和20年6月5日の神戸空襲のとき、母を失い、遠縁の未亡人からも邪険にされ、横穴で生活を余儀なくされた兄と妹の物語『火垂(ほた)るの墓』の一節だ。栄養失調から生死をさまよいだした妹に、兄としてぎりぎりのところで言い放った一言だ。

この作品で野坂昭如は昭和42年下期の直木賞を受賞した。野坂自身は昭和5年に鎌倉市に誕生し、後年神戸の張満谷家の養子になり裕福な家庭に育つが、昭和20年6月5日の神戸空襲で養父を失い、妹とともに孤児同様の生活を送った、その実体験をもとに書かれたのがこの作品であった。

野坂昭如

戦後新潟県の副知事をしていた実父に引き取られ、早稲田大学に進学するがアルバイトに熱中し、三木鶏郎門下となり永六輔、いずみたくらとつるみ合って過ごした。30歳を過ぎた頃から自称「焼跡(やけあと)・闇市(やみいち)派」と名乗り、黒眼鏡をかけ「プレイボーイ」宣言をして、「女は人類ではない」などとテレビで言い放ち、世の女性を怒らせたりしたが、その裏でちゃっかりタカラジェンヌをゲットし、結婚をしていた。

年の時期に遭遇した悲惨な戦争体験が、彼の言動をして時にはじらい、時に無頼にした。つまり「はじらいと無頼」の同居という不可思議な性格を育てた。

その彼、シンガー、作詩家、政治家などとマルチタレントとして活躍、人気作家になった昭和47年位からは神楽坂ホン書き旅館「和可菜」に、何度かカンズメになった。毎月数誌の文芸誌の連載をかかえ編集者に締め切りを迫れて和可菜の玄関横に泊まりこみをされると、そこはそこ言い訳を恥じて今度は和可菜を逃げ出す始末。当時、旅館の玄関には紫外線が斜めに幾本か走っていて、それに当たると「パポン」と鳴る仕掛けがあった。しかし彼は身をよじってそこを通りぬける術をさぐりあてた。編集者たちは「そんなに手間ヒマかけて逃るくらいなら、その時間に1枚でも原稿を書けば良いのに」と、その無頼ぶりを嘆いたものだった。だが、なんのかんのと言っても雑誌の連載を落としたことはない。だから奇妙にどの編集者からも愛された。

神楽坂といえば仲人の丸谷才一によると、酒の上での会話でその地名が出ると不思議にも「カグラザカ」を「タカラヅカ」と2、3度言い間違えたという。よほどタカラジェンヌが気に入ったのだろうか?

晩年のエッセイ「七転び八起き」(毎日新聞連載)では政治を憂い、世のなりゆきを憂い、戦後の人間の思いやりのなさを嘆いたりしていたが、何といっても空襲のない日々のうれしさを語っていた。

さらに妹を餓死させた時、小説のように優しい兄ではなかったことを恥じて、それを新聞で正直に白状していた。平成27年死去、脳梗塞で倒れリハビリを重ねた末の85歳の生涯だった。

昨年10月、奥様の暘子さんが出版した『うそつき』―夫・野坂昭如との53年―は、黒眼鏡の下の「永遠の少年」をあますことなく浮き彫りにし、夫への愛に充ち満ちていた。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。