第7回 稲垣足穂 昭和文壇の鬼才?

〈ある晩、黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切ると パチン!と黄色い煙になってしまった 頭の上でキャッ!という声がした 窓をあけると 尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた〉

稲垣足穂(たるほ)の23歳の時の作品『一千一秒物語』中の一節である。これこそショートショートの元祖だ。

20世紀が生んだ魔術師 稻垣足穂

彼は明治33(1900)年に大阪船場に誕生。7歳の時に明石に移り、関西学院に入学。飛行機や博物学、哲学に熱中し、19歳で卒業と同時に上京、その後、再上京の際に佐藤春夫の知遇を得た。先の『一千一秒物語』は、佐藤の序文をつけての出版であった。

これにより彼は20世紀が生んだ魔術師ともいわれ、「魔術師は未来派のスピードと飛躍を手中にし、光のマントを翻して過去と未来、地上と天上を自由自在に旅した」とされた。一時期アルコールとニコチンにおかされ執筆不能に陥ったこともあり帰郷したりしたが、昭和12年5月から横寺町へ越して来て、戦災で焼け出される20年4月までの8年間を37番地で暮らしていた。その地はかつてあった私立の幼稚園と棟続きで岩戸町の法正寺と背中あわせ、2階6畳間ですぐ下は墓地だった。もちろん、金欠の極貧生活。

何故そこに来たかは、多分飯塚酒場で「官許にごり」を貧乏人にタダで飲ませてくれることを聞きつけたからだろう。なにせ酒の値段が安かったし、文無しには極楽の店。午後5時開店に合わせて酒飲みの常連は3時過ぎ頃から白銀公園にたむろして、開店近くになると脱兎のごとく店にダッシュ、熱い2合のドブロクを日頃鍛えた業で飲み込み、2回目のためにこれまたダッシュして最後尾に並ぶ。その折は皆が皆、身体を左右に傾け腕を広げ飛行機のフライトのごとく奇妙な恰好で走ったという。

当時のことを書いた2冊の本にふれてみる。

『横寺日記』では神楽坂の盛文堂に出かけ、天文民俗学の野尻抱影の『星座巡禮』を買い求め、南藏院の向かいの崖から牽牛や織姫やカシオペアやペガサスを見ていたことが記されている。

『弥勒(みろく)』では「身辺皆無」の生活の中で「目指す人間とは、本来の己自身である/最も自分らしい場所に立帰らねばならぬのではないか」とする弥勒の意識を突き、文壇のアウトサイダーとしての姿勢と面目が読み取れる。だが、一方では生活全般が多岐にわたって書かれており、神楽坂周辺の人々や商人たちのこころ優しさを、例えば質屋では身につけた背広や靴から、はては老眼鏡までいやな顔ひとつせずに応対してくれたこと、商店ではツケをこころよく受け入れられ、生活上いたって快適であったことに、読む方もついホロリとさせられる。

そんな稲垣は戦後ホモセックスの美学を説いた『A感覚とV感覚』『ヴァニラとマニラ』『少年愛の美学』など異色作品を発表、『少年愛』では昭和43年に第1回日本文学大賞を受賞。難解な文章ではあるが、既存の文学の枠をはるかに突き抜けたものだった。戦後は京都伏見に定住し、昭和52年、77歳でその地で没している。

最終回では野坂昭如をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。