第6回 矢田津世子 マドンナ伝説を超えて

夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露地をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなってゐる

これは昭和11年上半期の芥川賞候補作『神楽坂』の出だしの部分である。神楽坂に本宅と妾宅を構えその2軒を行ったり来たりしている金貸しの吝嗇な馬淵の爺さんが、「無駄使い」専門の妾に対して、「使うことをしない」本妻とそれに歩調をあわせる身よりの無い女中の女性3人を見つめていく、といった内容のものである。爺さんが妾宅に行った後、内職に励む本妻が障子の裏側を這う毛虫をジット目を凝らしながら針で突き刺すといった迫真の描写でその悔しさを表現する箇所があったり、人間観察の鋭さが目立つ作品であった。

矢田は明治40年。秋田県五城町に生まれ、9歳の時一家をあげて東京に出て飯田町に居住、一時名古屋に移るも再び上京し、命を削り作家修業に励んだ。昭和16年には注目すべき『茶粥の記』という作品を書いている。

矢田津世子(30代の頃か)

主人公はしがない区役所の戸籍係、その夫に死なれた妻が、生前の夫の草稿を手にする。実際に行ったことのない土地の食べた事のない妙味がとくとくと書かれている。

赤い器に白魚―実に美しい対照だ。游いでるやつをヒョイと摘むんだが、もちろん箸でだ。なかなか、こいつが掴めない。用意してある柚の搾り醤油に箸の先のピチピチするやつを食うんだが、その旨いことったらお話にならない」――「嘘ばっかり、嘘ばっかり」と妻はあきれながら、不思議にも夫の文章からつばが出てくるのを押さえきれない

食に対する異常なまでの想像力に、腹立たしさを感じつつ夫への思いが静かにあふれるといった内容だ。

矢田は美貌とおとなしい性格のためか、時事新報社のスター記者和田日出吉との交際や「美神」としてまでもあがめた坂口安吾の一方的な恋慕によって「マドンナ伝説」が残り、作品もきめ細かな情感の文学と受け取られたが、実は矢田の文学はそんなヤワなものではなかった。

彼女は情にまして理に勝った作家だった。幸不幸にかかわらず意志的である女性を描き、戦前の家父長制度の中での女性の役割を探りながら、女性の力をたぐりよせていった。彼女の作品で言いたかったのは「女性の豊かな教養がどんなに多くの悲劇を未然にくいとめたであろうか」であり、「日本の社会における女性の存在の愛おしさ」だったのではなかろうか。

もし矢田が戦後生きたとしたらどんなものを書いただろうか。私はずばり『茶粥の記』の平凡な夫がもっていた笑えぬ男の狂気――つまり道化を書いただろうと思う。それによって日本近代文学は、ごく当たり前の執着が必然的に道化になっていくという人間のもつ側面を深化させたであろう。「家族」とか「文学」が崩れだした現在、文学者矢田が追求しようとしたことにもっと光があたるべきだ。彼女は昭和19年、淀橋区(現新宿区)下落合にて結核で37歳の若さで没している。

次回は稲垣足穂をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。